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アーベルをめぐる人びと7 楕円的超越物の逆関数

 18歳のアーベルが報告した「5次方程式の解法」はまちがえていたのですが、カテドラル・スコーレのホルンボエもクリスチャニア大学のハンステンとラムスセンもコペンハーゲン大学のデーエンも、どこがどのようにまちがっているのか、だれも指摘することができませんでした。そうかといって確信をもって正しいと言ってくれる人もいませんし、宙ぶらりんの状態になってしまいました。
 1823年6月、クリスチャニア大学の第2学年に在籍中のアーベルは機会を得てデンマーク旅行に出かけ、コペンハーゲンで夏の休暇をすごしました。8月4日付で故国のホルンボエに宛てて書かれたコペンハーゲン便りが『アーベル生誕100年記念文集』に収録されていて、モンジュの著作『幾何学への解析学の応用』とルジャンドルの著作『数の理論のエッセイ』を読んだこと、わけてもルジャンドルの著作には強く心を惹かれたことなど、コペンハーゲンの日々の様子が詳しく綴られています。その中にひとつ、実に不思議なひとことが目に留まります。それは「楕円的超越物の逆関数」という言葉で、「楕円的超越物」の原語はフランス語のTranscendantes elliptiquesです。アーベルの手紙はノルウェー語で書かれているのですが、この一語だけはフランス語で表記されています。
 かつてデーエンはハンステンに宛てた手紙の中で、代数方程式論のような実りのないテーマにこだわるのではなく、楕円的超越物を研究してほしいというアドバイスを送ったことがあります。その手紙の日付は1821年5月21日でした。アーベルはこのアドバイスを受けて、おそらくルジャンドルの著作に手掛かりを求めて楕円関数論に心を向けるようになったのであろうと思われますが、何事かを研究して実際に論文を書いた模様です。その中に楕円的超越物の逆関数を論じた小品があり、アーベルはその論文において「あるありえないこと(une chose impossible)」を示したというのです。『アーベル生誕百年記念文集』にはアーベルの手紙のフランス語訳も収録されていて、une chose impossibleは「ありえないこと」のフランス語による表記ですが、アーベルはどこかでまちがえてそのような結果に導かれてしまったのでしょう。
 この論文をデーエンに見せて読んでもらったのですが、デーエンはどこがまちがっているのか、指摘することができませんでした。5次方程式の解法を綴った論文のときと同様、またしても答のない状況になってしまいました。それでもアーベルは「この地で数学を知る唯一の人物」とデーエンを評しています。
 この時期のアーベルがどのようなことを研究していたのか、その中味を具体的に知ることはもうできませんし、アーベルがまちがえて証明してしまった「ありえないこと」についても何もわかりませんが、ただひとつ、アーベルはこの時点ですでに楕円積分の逆関数というアイデアを手にしていた様子がはっきりと伝わってきます。

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ガウスに学ぶ初等整数論4 ガウスの「高等的アリトメチカ」とルジャンドルの「数の理論」

ルジャンドルはなぜアリトメチカという言葉を避けたのでしょうか。本当の理由はわかりませんが、ガウスの『アリトメチカ研究』の緒言を見ると、あるいはこのためかと思われることが記されています。ガウスによると、アリトメチカの名のもとで教えられている事柄は何かというと、記数法と計算の技術の域をほとんどこえることはないとのこと。もう少し具体的に言うと、数を、たとえば十進法のような適当な表記法で書き表すこと、それに、アリトメチカに関連するさまざまな演算を遂行することでほとんど尽きているということです。ガウスはこのようなアリトメチカを指して「初等的」と呼び、「整数に固有の諸性質に関する一般的研究はことごとくみな高等的アリトメチカの手にゆだねることにするのがよいのではないかと思われる」と、「高等的アリトメチカ」の一語を提示しました。そのうえで、「ここでは高等的アリトメチカのみが語られるであろう」と言葉を続け、『アリトメチカ研究』で叙述される整数論は高等的アリトメチカであることを宣言しました。
 この時期のアリトメチカという言葉の使い方の流儀はガウスの言うとおりだったろうと思われます。ガウスはこれから叙述しようとしているアリトメチカは一般に流布しているアリトメチカとは違うのだということを強調しようとして、アリトメチカを初等的と高等的の二つに分けました。この点についてはルジャンドルの認識もガウスと同じと見てさしつかえありませんが、ルジャンドルはどうしたかというと、アリトメチカという言葉自体の使用を避けて、新たに「数の理論」「数論」という言葉を作ったのでした。

ガウスに学ぶ初等整数論3 等式と合同式

このようにして「数の合同」ということの意味合いが明らかになりましたが、『アリトメチカ研究』には合同を表すのに用いられる記号「≡」について、ガウス自身の言葉が書き留められています。ガウスの見るところ、等式と合同式はとてもよく似ているとのことで、この類似性を示唆するために等号と類似の記号を用いることにしたのだというのです。
それほどよく似ているのであればあえて新しい記号を導入するまでもなく、等号「=」を流用すればよいのではないかとも考えられそうです。実際、ルジャンドルはそのようにしたとガウスは言い、ルジャンドルの著作『数論の試み』(1798年)を挙げました。ではありますが、等式と合同式を同じ記号で表すのでは区別が曖昧になりがちですし、そのためにルジャンドルを模倣する気持ちにはなれなかったのだというのがガウスの弁明です。
 このような説明によると、「数の合同」という観念はルジャンドルにもすでに存在したかのように思われますが、実際にはそういうことはありません。たとえば16を5で割ると、等式16=5×5-9が成立します。この状況を描写するのに合同式-9 ≡ +16 (mod. 5)を書くのがガウスの流儀ですが、ルジャンドルなら、「5による割り算が行われている」という状況を明記したうえで、等式16=-9を書くところです。ガウスはこの情景を念頭に置いて、「ルジャンドルは合同式に対しても等号をそのまま使用した」と指摘しました。ですが、ルジャンドは単に5×5を省いて略記しただけにすぎず、ガウスのように「等式の世界」とは別に「合同式の世界」を構築しようとする意図を抱いていたわけではありません。ガウスはそのような諸事情は先刻承知のうえで、先達のルジャンドルに対してあえて敬意を表したのでしょう。
 ガウスが挙げたルジャンドルの著作の書名に「数論」という言葉が見えますが、原語はフランス語のTh'eorie des nombresで、そのまま訳出すると「数の理論」、縮めて「数論」となります。ルジャンドルは古典ギリシアにさかのぼる伝統をもつアリトメチカの一語を放棄して、「数論」という即物的な言葉を採用したのですが、実はこれが数論という言葉の最初の使用例で、いまもそのまま継承されています。

ガウスに学ぶ初等整数論2 合同式に始まる

 ガウスの数論の舞台は「合同式の世界」です。この世界の根幹を作るのは「数の合同」という概念ですが、実際には概念というほどのこともない単純な考え方で、何の抵抗もなくさらさらと飲み込めます。具体的に言うと、3個の数a, b, cについて、もし数aが数b, cの差を割り切るならば、bとcは「aに関して合同」であるといい、そうでなければbとcは「aに関して非合同」であるといいます。ガウスは『アリトメチカ研究』の第1章「数の合同に関する一般的な事柄」の第1節の冒頭で、「合同な数」というものをこのように規定して、二つの数b, cがaに関して合同ということを
     b ≡ c(mod. a)
という形に表記しました。等号「=」に似た記号「≡」が用いられています。数や多項式や関数など、二つのものが等しいことを示すには両者を等号で結びますが、そのような数式は「等式」と呼ばれています。これに対し、上記のb ≡ c(mod. a)のように、二つの数が合同であることを示す数式には「合同式」という呼称がぴったりあてはまります。ただし、ガウス自身がそのように呼んでいるわけではありません。
 「bとcは合同」という言明はこれだけでは意味をなさず、「aに関して」という文言が不可欠です。この特別の役割を担う数aのことを、ガウスは合同式の「法」という名で呼んでいます。
 b, cがaに関して合同というのはbとcの差b-cがaで割り切れることを意味しています。ガウスが挙げている事例を再現すると、

-9 ≡ +16 (mod. 5) (正の整数16に符号「+」が附せられています。)
-7 ≡ 15 (mod}. 11) (これもガウスが書いた合同式ですが、ここでは正の整数15に符号「+」が省かれています。)

 ここに挙げた二つの合同式では、法5と11には正負の符号がつけられていないことに留意したいと思います。「5で割り切れる」と言っても、「-5で割り切れる」と言っても論理的には同じことになりますが、ガウスはここのところに特に註記して、「法は絶対的に取る」と言い添えています。「絶対的に取る」というのはどのような意味かというと、「法には正負の符号をつけない」ということで、このようなガウスの言葉遣いには正負の数の観念の根底に「数それ自体」を見るという意識が働いているように思います。
 後年のことになりますが、ドイツの数学者クロネッカーは1886年にベルリンで行われた自然研究者会議での講演の際に、

≪整数は神が作ったが、他のすべては人間の作ったものである。≫
(Die ganzen Zahlen hat der liebe Gott gemacht, alles andere ist Menschenwerk)

という、不思議な言葉を語ったということです。ハインリッヒ・ウェーバーが伝えるエピソードです。
Die ganzen Zahlenは「欠けるところのない数」「全き数」というほどの意味の言葉で、これに対立するのは「分数」です。そこでこの言葉には「整数」という訳語があてはまりそうですが、クロネッカーの心情を忖度すると、クロネッカーのいうDie ganzen Zahlenは正の整数、自然数、数それ自体、すなわち古典ギリシアのいう「数」なのではないかと思います。そのような「数」は先天的に存在する何物かなのであり、分数、負数、無理数などは「数」から派生して人がこしらえた数なのだと、クロネッカーは言いたいのではないかと思います。このあたりの消息には、ガウスのいう「法は正負の符号をつけずに取る」という言葉と通い合うものが感じられます。

ガウスに学ぶ初等整数論1 正の整数と負の整数

 ガウスの著作『アリトメチカ研究』(1801年)は合同式の概念の導入とともにはじまります。アリトメチカというのは「数の理論」を意味する古い言葉ですが、ガウスの著作で「数」といえば整数のことで、整数は正の整数と負の整数に大きく二分されます。今日の数学の語法では正の整数は「自然数」と呼ばれることもあります。負の数には数の前に符号「-」を添えて-1, -2, -3, ・・・と書き表します。同様に、正の数には符号「+」を添えて+1, +2, +3, ・・・というふうに表記しますが、負の数については符号「-」が不可欠であるのに対し、正の数の場合には符号「+」はしばしば省略されます。
 数の理論は古典ギリシアにもすでに存在しました。ユークリッドの著作と伝えられる『原論』には幾何学ばかりではなく数論も語られているのですが、古典ギリシアの数論で「数」といえば、ガウスのいう正の整数、すなわち今日の語法でいう自然数のことでした。ガウスの『アリトメチカ研究』が刊行されたのは19世紀のはじめの1801年のことで、ユークリッドの時代からガウスにいたるまで、ざっと2000年の歳月が流れています(ユークリッドは紀元前3世紀を生きた人と言われていますが、正確なことはわかりません)。ガウスは数論を展開する場所として整数域を設定し、負数を排除していませんが、数学的思索が繰り広げられる場所がギリシアから西欧に移り行く間に何事かが変化して、数論の守備範囲にいわば「負の自然数」が加わって、数学に携わる人びとの心に整数の観念が定着したのでした。
 「数それ自体」には符号は伴いませんから、1, 2, 3, ・・・というふうに表記されますが、負の数を創造して整数を考えるという構えを取ると、従来の数は正の数として認識されるようになります。その認識を基礎に置けば正の数には符号「+」をつけるのが自然な成り行きです。他方、「数それ自体」という観念も消滅したわけではないようで、その観念に足場を定めれば、古典ギリシアにおける数とガウスのいう正の整数は同じものに見えますから、符号「+」は不要になりそうです。正の整数に符号「+」をつけたりつけなかったりする背景には、このような数に寄せる観念の変遷が控えているように思います。

アーベルをめぐる人びと6 デーエンのアドバイス

コペンハーゲンはデンマークの首都で、そこには古い歴史をもつ大学がありました。ハンステンとラムスセンがそのコペンハーゲン大学の数学者デーエンにアーベルの論文の評価を依頼したところ、デーエンもまた成否を判定しませんでした。まちがっている個所が指摘されたわけではありませんから「正しい」という結論を下してもよさそうですが、そうすると5次の一般方程式の根の公式の発見を承認することになりますから、慎重に対処しようとする心情に傾くのも無理のないところです。
 ハンステンに宛てたデーエンの手紙が残されていますが、そこにはアーベルに寄せるアドバイスが書き留められています。ひとつはアーベルが発見したという公式の具体的な適用例のことで、係数の数値を特定した5次方程式、たとえば
      x^5-2x^4+3x^3-4x+5=0
という方程式に対してアーベルの公式を適用して試してほしいというのでした。この試みがlapis lydius(ラピス・リディウス)になるというのがデーエンの意見です。lapis lydiusはラテン語で、lapisは石の意ですからlapis lydiusは「リディアの石」となります。フランス語ではpierre de toucheで、試金石という意味の言葉です。試金石というのは貴金属の純度を調べるための石のことで、玄武岩のような黒色の緻密な岩石が使われるとのこと。はじめは小アジアのリディア(Lydia)で採取されたようで、それで試金石のことを「リディアの石」と呼んでいる模様です。
 同じ書簡に書かれていることですが、デーエンは5次方程式の解法の探究で果実を期待することはできないと考えていたようで、このような不毛な問題に関わるのではなく、解析学全般にとって、力学の応用のためにもはるかに重要なテーマに取り組んでほしいと言い添えました。5次方程式を解く問題はむずかしすぎて、いたずらに歳月を浪費するばかりと見ていたのでしょう。そのような問題よりも重要性の度合いがはるかに高く、しかも実りの豊かなテーマがある。それはtranscendantes elliptiques(トランスケンダンテ・エリプチク)のことだとデーエンは明言しました。
 transcendantes elliptiquesはフランス語で、そのまま訳出すると「楕円的な超越物」となります。「超越的なもの」の中に「楕円的なもの」がある。それは今日の語法でいう「楕円積分」のことにほかなりません。「楕円的な超越物」「楕円積分」「楕円関数」と、この時期の語法は統一性を書きがちなのですが、ここでは「楕円関数」「楕円関数論」と総称することにします。
アーベルのような資質の持ち主はこの領域を探究し、解析学の太洋の広大な領域への道を開く「マゼラン海峡」を見つけてほしいというのがデーエンの第二のアドバイスでした。1821年といえば、おりしもルジャンドルの著作『さまざまな位数の超越物と求積法に関する積分計算演習』(全3巻、1811-1817年)が完結してまもないころでもありました。ハンステンを通じてデーエンのアドバイスに接したアーベルが、このルジャンドルの著作を手に取ろうという心情に傾いたと想定するのは許されるのではないかと思います。デーエンはアーベルの目が楕円関数論へと向うきっかけを与えたという意味において、アーベルをめぐる人びとの中で重い位置を占めることなりました。
 デーエンの手紙の日付は1821年5月21日。アーベルがカテドラル・スコーレを卒業したのは同年7月。クリスチャニア大学に入学したのは同年9月です。5次方程式の解法を語ろうとする論文が実際に執筆されたのは1821年の前半期と推定されますが、アーベルはまだカテドラル・スコーレに在学中で、満年齢ではわずかに18歳にすぎませんでした。

アーベルをめぐる人びと5 解けたと信じたころ

5次方程式の解法はベズー、チルンハウス、オイラー、ラグランジュなど、実に多くの人びとの手で試みられました。この過程において3次と4次の方程式の新たな解法が考案されるということもありましたし、代数方程式論は数学の重要な理論として認識されるようになりましたが、5次方程式を解こうとしても式変形に工夫を凝らすだけではなかなかうまくいきませんでした。
これに加えて、基本的なところに未解決の課題が残されていました。ひとつは代数方程式を解くということの意味に関することで、どのような状況を指して「解ける」と呼ぶのかという点を明確に自覚する必要があります。この課題はラグランジュにより、めざされているのは「代数的解法」であることがはっきりと語られました。2次、3次、4次の方程式の既知の解法はみな代数的解法でした。もうひとつの課題は「根の存在」に関することでした。方程式を解くといっても根が存在しなければ解法ということもありえませんし、根の存在を確認することは基本中の基本の論点ですが、この問題はガウスの手で「代数学の基本定理」が確立されることにより解決しました。複素数域において探索する限り、どのような代数方程式も必ず根をもつことが明らかになり、これでようやく「根の代数的表示は可能か」という問いが明確な意味をもちました。
 このような数学的状況を顧みると、「5次方程式を解く」ということは未解決の重要問題であったことがうなずかれますが、若いアーベルはどのような経路を経てこの問題に出会ったのでしょうか。具体的なことはよくわからないのですが、オイラーの著作に『代数学への完璧な入門』(1770年)があり、3次方程式と4次方程式の解法が叙述されています。解析学を学ぶための最適のテキストがオイラーの「解析学三分作」だったのと同様に、代数学を学ぶための最良のテキストでした。アーベルはおそらくこの本もまたホルンボエとともに読み、大いに触発されたのではないかと思います。
 アーベルの1821年の論文は未見ですが、おそらくこの時点では根の存在を疑わず、もしかしたら解けないかもしれないなどと思うこともなく、式変形を工夫して根の代数的表示に到達したと信じたのでしょう。この時期のアーベルはまだカテドラル・スコーレに在学中でした。ホルンボエはもとより、クリスチャニア大学の二人の数学者ハンステンとラムスセンにも見てもらったのですが、だれもアーベルの論文に誤りを見つけることができませんでした。そうかといって「正しい」と判定するのは、なにしろオイラーもラグランジュも解けなかった数学史上の難問が解けたと宣言してお墨付きを出すことになるのですから、勇気と決断を要します。そこでハンステンとラムスセンは判断を保留して、デンマークのコペンハーゲン大学の数学者デーエンの意見を求めることにしました。

アーベルをめぐる人びと4 5次の一般方程式の解法をめざして

アーベルがはじめに関心を寄せたのは代数方程式でした。代数方程式の解法の探究に向い、「一般の5次方程式を解くこと」をめざして成功したと確信し、1815年には「5次方程式は解ける」という主旨の小論文を書いたほどだったのですが、この間の経緯にはいくつか検討しなければならないことがあります。
 代数方程式の解法ということを考えていくと、16世紀のイタリアの数学者たちの発見が念頭に浮かびます。2次方程式の解法なら特にむずかしいことはなく、古くから知られていましたが、3次方程式や4次方程式を解くのは格段にむずかしくなります。16世紀になってイタリアの数学者シピオーネ・デル・フェッロとタルタリアが3次方程式、フェラリが4次方程式の解法に成功しました。これを受けて、次はごく自然に5次方程式の解法の探究に向うことになりそうですし、実際に数学史はそのように推移したのですが、一般に代数方程式の解法ということが重要な問題として認識されるためには、デカルトとオイラーの影響が大きく作用したという事実は見逃せません。
 デカルトは著作『幾何学』において、古典ギリシアの幾何の作図問題を代数学の力を借りて解くというアイデアを表明しました。パップスの著作と伝えられる『数学集録』には「パップスの問題」という難問があり、巧妙なアイデアによる解法が紹介されているのですが、デカルトはこれを4次方程式の解法に帰着させてやすやすと解きました。また、「3線・4線の軌跡問題」というのも難問で、古典ギリシアではついに解くことができず、求められている軌跡は円錐曲線(楕円、放物線、双曲線)であろうという予想が語られるのみに留まりました。ところが「曲線を代数方程式で表す」というデカルトのアイデアを採用すると、求める軌跡は2次曲線であることがあたりまえのことのように示されます。さてそのうえで2次曲線は円錐曲線であることを確認すれば、それで「3線・4線の軌跡問題」は解決されたのでした。代数学の力はまったく魔法のようでした。
 デカルトは「幾何学に取入れるべき曲線とは何か」という問いを立て、曲線の世界から、後にライプニッツにより「代数的な曲線」と呼ばれることになる曲線の範疇を指定して、この問いに答えました。この間の思索の足跡はデカルトの著作『幾何学』に詳細に叙述されているのですが、この著作が刊行されたのは1637年です。それから一世紀余の歳月が流れ、18世紀の中ごろの1748年になってオイラーの著作『無限解析序説』(全2巻)が現れました。「曲線の解析的源泉」に実在感を抱いて探究し、それを「関数」の概念において認識しようとするところにオイラーの思索の要点がありました。この基本思想によると代数曲線の解析的源泉は「代数的な関数」であり、代数曲線は代数関数のグラフとして把握されることになりますが、ここにおいてがぜん問題となるのは「代数関数とは何か」という問いでした。オイラーは代数関数の積分を考えようとしていましたので、積分の対象となる代数関数の姿形を把握することが、もっとも基本的な課題として課されるのでした。
 オイラーの視点に立てば、2個の変数xとyを連繋する代数方程式P(x,y)=0が存在するとき、yをxの代数関数といい、xをyの代数関数というのですが、たとえば等式P(x,y)=0をyに関する代数方程式と見るとき、諸係数はxの多項式です。もしこの方程式がいつでも代数的に解けるなら、yはxの代数的表示式として表されますから、「代数関数とは変数xといくつかの定量を用いて組み立てられた代数的表示式のことである」という言明が可能になります。次数が4をこえる一般代数方程式の代数的可解性の判定が、この可能性を開く鍵をにぎっています。

アーベルをめぐる人びと3 ラプラスの言葉

 ホルンボエの父も牧師で、ホルンボエもまたアーベルと同じクリスチャニアのカテドラル・スコーレに入学しました。1814年の夏、卒業し、それからクリスチャニア大学に入学しました。この時点でホルンボエは19歳です。創立されてまもない小さな学校で、ホルンボエが入学したとき、教師は6人、学生もまたわずかに17人でした。
大学の所在地がクリスチャニアであるからというのでクリスチャニア大学と呼ばれているのですが、フレデリック王立大学というのが正式の呼称です。フレデリックというのはデンマークの王のフレデリック6世のことで、そのフレデリック6世がノルウェーに自前の大学をもつことを許可したのが1811年。これを受けて1813年になって開学しました。デンマークとノルウェーの連合王国とスウェーデン王国の間でキール条約が結ばれたのが1814年1月14日。同年5月17日、ノルウェーは独自の憲法を制定し、国王を立てて独立を宣言したのですが、スウェーデンはこれを認めず、ノルウェーとの間で戦いが起りました。わずかな日数ででノルウェーが破れ、8月、モスで休戦条約締結。ノルウェーの独立は覆されて、スウェーデンと連合王国を組むことになりました。ノルウェーの議会が絹布を改正し、スウェーデンの国王カール13世をノルウェーの国王に選出したのは11月4日と記録されています。
1813年から1814年にかけて、ノルウェーは政治上の過渡期にさしかかっていたのですが、ホルンボエは1814年にカテドラル・スコーレを卒業してクリスチャニア大学に入学しています。ノルウェーの独立を志して学生たちを結集し、指導者になって行動を起こしたというエピソードも伝えられていますが、これは実りませんでした。1815年秋、アーベルがカテドレル・スコーレに入学したとき、ホルンボエはクリスチャニア大学に在学中でした。
 ホルンボエとアーベルは、出会った当初は教師と生徒という関係でしたが、たちまち親しくなり、いつのまにか親しい友になりました。アーベルの没後、アーベルの最初の全集を編んだのはホルンボエでした。
 アーベルはホルンボエといっしょにオイラーの「解析学三部作」を読んだのですが、この時期、すなわち19世紀のはじめのころに数学を学ぼうというのであれば、オイラーの著作が最良のテキストだったことと思います。数学なら学校でも教えられていて、現にホルンボエはカテドラル・スコーレの数学教師だったのですが、学校で学ぶ初等的な数学をこえた数学ということになると適切な入門書があるわけでもなさそうですし、いきなりオイラーやラグランジュの著作や論文になってしまいます。オイラーは非常に多産で、ペテルブルクやベルリンの科学アカデミーが出している学術誌には大量の論文が掲載されていましたし、大部な著作もまた何冊もありました。オイラーほどではないにしてもラグランジュも多くの論文を書き、『解析力学』(1788年)とか『解析関数の理論』(1797年)のような名高い著作もありました。ラグランジュの学問上の仕事はおおむねオイラーの継承で、継承の仕方に際立った創意が認められますので、オイラーとラグランジュは合わせてひとりの数学者であるかのような印象があります。
 オイラーを読むのが最良の勉強ということについてはラプラスなども同じ考えだったようで、グリエルモ・リブリという人のエッセイによると,ラプラスは若い数学者たちに向ってつねづね

「オイラーを読め、オイラーを読め、オイラーはわれらすべての師だ。
(Lisez Euler, Lisez Euler, c'est notre ma^itre `a tous)

と語りかけていたそうです。

アーベルをめぐる人びと 2 ホルンボエと出会う

 アーベルが生れて2年後の1804年には、年末12月10日にドイツのポツダムでヤコビが生れています。ヤコビはアーベルと会ったことはないのですが、アーベルの数学研究をもっとも深く理解したのはヤコビですので、ヤコビもまたアーベルをめぐる人びとに所属する重要な人物のひとりです。
 アーベルの父はセレン・ゲオルゲ・アーベル、母はアンネ・マリーエ・シモンセンという人です。母方の祖父にニールス・ヘンリック・サクシル・シモンセンという人がいて、その名をとってニールス・ヘンリックと名づけられました。父はルター派の牧師でした。父方の祖父も牧師で、教区牧師といってイェルスタ教区を担当していたのですが、1803年、アーベルが生れた翌年に亡くなりましたので、父が教区を引き継ぐことになりました。1804年、アーベルは両親とともにイェルスタ教区に移り、牧師館に住みました。イェルスタはアーベルの生地ではありませんが、少年期の大半をすごした土地であり、アーベルの故郷になりました。西欧近代の数学者たちの中には父が牧師という人がわりと目立ちます。オイラーの父もリーマンの父も牧師でした。
 ノルウェーという国についてもう少し。現在のノルウェーの首都はオスロですが、アーベルの時代にはクリスチャニアという名前の都市でした。クリスチャニアが改称されてオスロになったのは第一次大戦後の1925年のことですから、アーベルが生きた時代よりも100年の後のことになります。その20年前の1905年はノルウェーが独立した年と記録されています。それまではノルウェーは独立した国家ではなく、アーベルが生れた1802年のころはデンマークの国王がノルウェーの王も兼ねていました。同君連合といって、デンマークと組んで連合国家を形成していたのですが、デンマークの王が同時にノルウェーの王でもあるのですから対等の関係とは言えません。おりしもナポレオン戦争の時代であり、デンマークはナポレオン側についたスウェーデンとの戦いに敗れ、ノルウェーをスウェーデンに引き渡しましたので、今度はノルウェーはスウェーデンと同君連合を組むことになりました。スウェーデンの国王カール13世がノルウェーの王になりました。これが1814年11月のことで、このときアーベルは12歳でした。
 それから1年がすぎて、1815年の秋11月、13歳のアーベルはクリスチャニアのカテドラル・スコーレ(聖堂学校)に入学しました。入学して3年後の1818年のクリスマスのころ、数学のホルンボエ先生がカテドラル・スコーレに赴任してきました。ホルンボエのフルネームはベルント・ミカエル・ホルンボエ。生誕日は1795年3月3日ですからアーベルより7歳の年長で、数学に情熱を抱く人物でした。アーベルは当初は数学に特別の情熱を抱いていたわけではなかったようですが、ホルンボエの強い影響を受けて数学に関心を寄せるようになり、いっしょにオイラーの「解析学三部作」と総称される著作『無限解析序説』『微分計算教程』『積分計算教程』を読むまでになりました。アーベルの心に数学の灯をともす役割を担ったという意味において、ホルンボエはアーベルをめぐる人びとの中でも特筆に値する位置を占めています。


アーベルをめぐる人びと 1 中勘助の詩「アベル」より

ニールス・ヘンリック・アーベルは19世紀初期のノルウェーの数学者です。1802年8月5日、ノルウェーのスタバンゲルの近くのフィンネイという島に生れましたが、1829年4月6日、フローラン・ベルクという町で亡くなりましたから、わずかに26歳と8箇月、27歳にも満たない短い生涯でした。定職がなく経済的に恵まれない日々をすごす中でひとり数学研究に心身を傾けて、ガウスの数学思想の真意を洞察し、しかもガウスも及びえない創意を加えて今日の数学の土台を作りました。
 アーベルの学問と人生を回想する前に、アーベルの生涯を歌う日本の詩人、中勘助の詩「アベル」を紹介しておきたいと思います。中勘助の日記体のエッセイ『逍遥以後疎開まで』の昭和15年7月19日の記事に書き留められています。

 「アベル」
 中勘助

 愛人のもとで樂しいクリスマスを迎へようと
 アベルはフロランドへと長い旅路を急いだ
 貧しい生活
 見すごされた天才
 彼は自分の論文が科學院でしまひ忘れられたのを知らず
 最後の時の迫るのも知らなかつた
 千八百二十九年
 二十六歳の青年
 春近く
 幸は遠く
 いまはの夜
 烈しい病苦
 夜をこめ祈る愛人の胸に抱かれつつ
 やうやくしづかなあした魂を天におくつた
 待ちあぐねて息絶えた人にベルリン大學招聘の知らせ
 かひなしや
 傷ましくもさがしい天才の路
  (『中勘助全集』第七卷、角川書店、293-294頁)

 この詩に綴られているあれこれの事柄について、これからおいおい語っていきたいと思います。アーベルが生れた1802年という年の前年の1801年には、9月末日、ガウスの著作『アリトメチカ研究』が刊行されていて、そのために西欧近代の数学の流れにおいて特別に重い意味を担う年になりました。なぜならこのガウスの著作は19世紀から20世紀初頭にかけて、およそ一世紀余りに及ぶ数学の大河の泉になったからです。
『アリトメチカ研究』はラテン語で書かれていて、原書名はDisquisitiones arithmeticae(ディスクイジチオネス アリトメチカエ)というのですが、ここに見られる二つの単語の頭文字をとってしばしばD.A.(ディーエー)と略記されます。アリトメチカというのは「数の理論」という意味のラテン語ですから、ガウスは19世紀のはじまりの年に整数論の書物を書いたのでした。ガウスの所在地はドイツのブラウンシュヴァイク。生誕日は1777年4月30日。この著作が刊行されたとき、ガウスはまだ24歳の若い数学者でした。
 アリトメチカというのは「数の理論」を意味する言葉ですが、D.A.の書名の単語arithmeticaeは形容詞です。Disquisitionesは「研究」という意味の名詞の複数形ですので、arithmeticaeと合わせると「数に関するいろいろな研究」というほどの意味になります。ガウスとアーベルは生れた国も年齢も異なりますし、実際に会ったこともないのですが、数学研究の場においてアーベルにもっとも深刻な影響を及ぼしたのはガウスでした。逆に見ると、数学におけるガウスの思想をもっとも深く継承したのはガウスその人であり、この二人を切り離して数学という学問を考えることはできません。アーベルをめぐる人びとを語ろうとするうえで、ガウスはまず第一に指を屈するべき人物です。

朝日カルチャーセンター講座案内

朝日カルチャーセンター新宿
人物に学ぶ数学と数学史
日時:平成29年2月24日(金)

第3回:無限解析の系譜―デカルトからオイラーへ

デカルトからオイラーにいたる道は今日の微積分の形成過程の黎明期にあたりますが、ライプニッツとオイラーの段階でそれぞれ大きな変化が起りました。イギリスのニュートンのことは別として、ヨーロッパ大陸の微積分の形成史は実に雄大で、登場人物も多彩です。デカルトとフェルマは激しく敵対するライバルでした。ライプニッツとベルヌーイ兄弟(兄のヤコブと弟のヨハン)は手を携えて微積分の内容を豊かにしました。オイラーはヨハン・ベルヌーイを師匠にもつ人物で、ラグランジュはそのオイラーの事績をきわめて創意に富む仕方で継承しました。人間模様の変遷そのものが数学の歴史を作っています。

朝日カルチャーセンター講座案内

朝日カルチャーセンター新宿
「人物に学ぶ数学と数学史」
開講:平成29年2月10日(金)

第2回 フェルマの数論とガウスの数論

西欧近代の数学における数論にはフェルマとガウスという異なる二つの泉が存在します。フェルマは1630年代に古代ギリシアの数学者ディオファントスの著作『アリトメチカ(数の理論)』のラテン語訳を見て、広い余白に48個のメモを書き込みました。それらはみな数論の命題で、証明がなかったのですが、およそ100年ののちにオイラーがいくつかについて証明を試みて成功し、数論の泉のひとつが形成されました。数論のもうひとつの泉は1801年のガウスの著作『アリトメチカ研究』です。ガウスは正真正銘の孤高の人ですが、アーベルをはじめ、ガウスに共鳴し、共感する一群の継承者に恵まれました。人から人へとバトンがわたされていく継承の姿に、数学の本質がよく現れています。


新刊案内

  新刊書刊行案内
  書名:発見と創造の数学史
  副題:情緒の数学史を求めて
  出版社:萬書房
  発行日:平成29年(2017年)2月10日


           発見と創造の数学史


朝日カルチャーセンター新宿 新講座案内「人物に学ぶ数学と数学史」

朝日カルチャーセンター新宿
人物に学ぶ数学と数学史
平成29年

 (1) 1月27日 アーベルをめぐる人々
 (2) 2月10日 フェルマの数論とガウスの数論
 (3) 2月24日 無限解析の系譜-デカルトからオイラーへ
 (4) 3月10日 クロネッカーの青春の夢
 (5) 3月24日 関口開と和算の終焉


【第1回 アーベルをめぐる人びと】
アーベルは19世紀初期のノルウェーの数学者です。1802年8月に生れ、1829年4月には病気で亡くなっていますから満26年の生涯でした。定職がなく経済的に恵まれない人生でしたがひとり数学研究に打ち込み、ガウスの数学思想の真意を洞察し、ガウスも及びえない創意を加えて今日の数学の土台を作りました。孤独な研究の日々を送ったアーベルですが、学生時代の師匠で、のちに親しい友になったホルンボエや、プロイセンの鉄道技官のクレルレのように、アーベルを理解する少数の人びとがいました。このあたりは岡先生の場合とてもよく似ています。アーベルとアーベルの学問を愛し、アーベルを支えた人びととの交流の中から19世紀の数学が生れる様子を再現します。

朝日カルチャーセンター新宿「岡潔 学問を支える友情」概要

朝日カルチャーセンター新宿
開講:平成29年1月13日(金)
「岡潔 学問を支える友情」概要

 岡潔先生は多変数関数論の開拓者として名高いひとですが、数学研究に打ち込む姿を回想すると秋霜烈日という言葉がぴったりあてはまります。勤務先の広島文理科大学を辞職して郷里の和歌山県紀見村にもどり、顧みる人もない多変数関数論研究に深遠な意義を見出だして孤高の思索に打ち込む日々を送りましたが、そんな岡先生を支えていたのは「治宇(じう)さん」こと中谷治宇二郎というパリで出会った親友でした。治宇さんは考古学者で、昭和11年3月、由布院で亡くなったのですが、早世した親友が岡先生の学問と人生を支え続けたのでした。お遍路の世界では「同行二人」ということをいいますが、岡先生の孤高の学問を支え続けた友情の姿を語りたいと思います。

朝日カルチャーセンター新宿「リーマンのアーベル関数論」概要

朝日カルチャーセンター新宿
開講:平成29年1月8日(日)
「リーマンのアーベル関数論」概要

【リーマンのアーベル関数論】
≪前半は関数から始めて代数関数、積分、複素変数、楕円積分、加法定理へ進み、リーマンのアーベル関数の理解をめざします。後半はリーマンによるヤコビの逆問題解決を解説します。≫

 リーマンのいう「アーベル関数」というのは「アーベル積分」のことで、アーベル積分というのは何かというと「代数関数の積分」です。アーベル積分の入り口は楕円積分。それを深く研究した最初の人は18世紀の数学者オイラーで、オイラーは「楕円積分の加法定理」を発見しました。楕円積分は3種に区分けされ、第1種楕円積分の逆関数が楕円関数ですが、アーベルはこれを複素変数の関数として考察しました。そこで、関数、代数関数、積分、複素変数、楕円積分、楕円関数、加法定理と話を重ねていくと、リーマンのアーベル関数論の世界の扉に到着します。講義の前半ではこのあたりまでをめざします。
 アーベル積分のアーベルというのは19世紀初期のノルウェーの数学者です。アーベルはパリに半年ほど滞在したことがあり、そのとき「パリの論文」と呼ばれる 大きな論文を書いたのですが、そのテーマは「アーベル積分の加法定理」です。オイラーを継承し、大きく凌駕する世界がここに開かれました。ドイツの数学者ヤコビは早世したアーベルの数学に寄せる心情に深く共鳴し、アーベルが発見した加法定理から「ヤコビの逆問題」を取り出しました。これがリーマンに継承されてアーベル関数論の主問題になりました。本講義ではリーマンによるヤコビの逆問題の解決の道筋と、この問題が解かれることの意義を合わせて解説します。


朝日カルチャーセンター新宿 新規開講のお知らせ

【朝日カルチャーセンター新宿】
https://www.asahiculture.jp/
新年1月から開講されます。

「リーマンのアーベル関数論」 1回
 1月8日(日)

「岡潔 学問を支える友情」 1回
 1月13日(金)

「人物に学ぶ数学の流れ」 5回
 1月27日(金) アーベルをめぐる人々
 2月10日(金) フェルマの数論とガウスの数論
 2月24日(金) 無限解析の系譜-デカルトからオイラーへ
 3月10日(金) クロネッカーの青春の夢
 3月24日(金) 関口開と和算の終焉


近刊予告


  近刊予告
  新年1月に刊行の予定です。

   書名:発見と創造の数学史
   副題:情緒の数学史を求めて


発売が近づきました

      近日発売です
      内容紹介+詳細目次
 
            リーマンと代数関数論

内容紹介

19世紀数学の中核に位置する代数関数論.さまざまな数学者たちが,どのように交わり,また,どのような思考の変遷を経てこの偉大なる理論が形成され,新たな道が拓かれていったのか.リーマンを軸に,論文と史実から読み解かれた数学の世界へ,精密で巧みな文章が読者を誘う.


主要目次

まえがき

第1章 代数関数とは何か――オイラーの関数概念とその変容
 1 関数概念を振り返って
 2 関数の世界と曲線の世界
 3 ディリクレとコーシーの関数概念

第2章 カナリアのように歌う――リーマンの「面」の発見
 1 修行時代
 2 ベルリンの数学者たち
 3 学位論文まで
 4 コーシーの複素関数論
 5 リーマン面のアイデアを語る
 6 マジョーレ湖畔で終焉を迎える

第3章 楕円関数論のはじまり――楕円積分の等分と変換に関するアーベルの理論
 I 楕円関数論の二つの起源――萌芽の発見と虚数乗法論への道
  1 楕円関数論の二つの流れ――変換理論と等分理論
  2 ファニャノの楕円積分論
  3 変換理論の諸相
  4 楕円関数の等分に関するアーベルの理論
 II クレルレの手紙
  1 ペテルブルグとゲッチンゲンからの手紙
  2 ヤコビの言葉とルジャンドルの言葉
  3 ルジャンドルの所見
  4 ベルリンへの招待
 III アーベルとルジャンドルの往復書簡より
  1 ルジャンドルからアーベルへ(1828年10月25日)
  2 アーベルからルジャンドルへ(1828年11月25日)
  3 ルジャンドルからアーベルへ(1829年1月16日)

第4章 アーベル関数の理論――ヤコビの逆問題の探究
 I 「パリの論文」からアーベル関数論へ
  1 代数的微分式の積分
  2 アーベルの加法定理
  3 加法定理と微分方程式
  4 超楕円積分とヤコビ関数
  5 ヴァイエルシュトラスとヤコビの逆問題
  6 リーマンのアーベル関数論
  7 複素多様体と多変数関数論との別れ
 II アーベル積分の等分と変換に関するヤコビとエルミートの理論
  1 歴史的概観
  2 楕円積分と楕円関数
  3 アーベル積分とアーベル関数
  4 アーベルの加法定理
  5 ヤコビの逆問題
  6 2変数4重周期関数
  7 ヤコビの逆問題とリーマン面
  8 超楕円積分の等分と変換
  9 隠された領域――数論とアーベル積分論

第5章 多変数代数関数論の夢――リーマンを越えて
 1 ガウスの『アリトメチカ研究』とヒルベルトの第12問題
 2 岡潔の遺稿「リーマンの定理」と多変数代数関数論の夢

あとがき
参考文献
数学者人名表
索引

Bernhard Riemann and the Theory of Algebraic Functions: The Junction of Modern Mathematics in Western Europe


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