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フェルマの数論5 直角三角形の基本定理

「直角三角形の基本定理」で語られるのは素数の性質で、素数の全体を「4で割ると1余るもの」と「4で割ると3余るもの」に二分して、前者の数は二つの平方数の和の形に書き表されるのに対し、後者の素数に対してはそのよう表示は不可能であることが主張されています。二つの平方数の和の形に表示されるか否かという点に着目するところには、ピタゴラスの定理が反映しているのですから、そのようなところに古典ギリシアの影響がはっきり見て取れそうに思います。
 実際、ピタゴラスの定理は、完全数とは別の、古典ギリシアの数論のもうひとつの泉です。ピタゴラスの定理の教えるところによると、直角をはさむ2辺の長さが1の直角三角形の斜辺の長さは「自乗すると2になる数」で表されますが、そのような数は数論でいう数、言い換えると、今日の言葉でいう自然数ではありません。他方、3辺がみな自然数である直角三角形もまた確かに存在します。そのような三角形をフェルマは「数直角三角形」と呼んでいます。簡明な例を挙げると、直角をはさむ2辺が3と4の直角三角形の斜辺は5になりますから、数直角三角形です。
 数直角三角形に寄せる関心はディオファントスの『アリトメチカ』に色濃く反映されていて、平方数が特別に重い位置を占めています。フェルマはこれを継承し、多種多様な数直角三角形を次々と見つけました。フェルマの全集からいくつかを拾うと、
・三つの数直角三角形で、それらの面積がある数直角三角形の3辺になっているもの
・直角をはさむ2辺の和の平方を面積に加えると平方数になる数直角三角形
・直角をはさむ2辺の差が1となる数直角三角形
・直角をはさむ2辺の差が7となる数直角三角形
・一番小さい辺と他の2辺との差が平方数になる数直角三角形
・与えられた面積比をもつ二つの数直角三角形
など、実に多彩です。フェルマはほかにも、
・面積が平方数となる直角三角形
を探索し、このような直角三角形は存在しないことを証明しようとしています。その証明にあたってフェルマが考案したのは、無限降下法という独自の手法でした。
 「直角三角形の基本定理」に話をもどすと、「4で割ると1が余る素数」は二つの平方数の和の形に表される(その表し方はただひととおりに限るという、「表示の一意性」も附随しています)というのがフェルマの発見ですが、「4で割ると1が余る素数」というのは、nは自然数として、「4n+1という1次式の形に表される素数」というのと同じです。また、二つの平方数の和の形に表される数というのは「x^2+y^2という2次式の形に表される素数」というのと同じです。
ある同一の素数が1次式と2次式の二通りの形に表されるということになりますが、この視点を採用すると、さまざまな形の1次式と2次式が考えられそうです。実際、フェルマは
・8n+1型と8n-1型の素数はy^2-2z^2という形に表される。
・8n+1型もしくは8n+3型の素数はどれもy^2+2z^2という形に表される。
・3n+1型の素数(必然的に6n+1型になります)はどれもy^2+3z^2という形に表される
という事実を発見しています。このようになるともう直角三角形との関連は消失し、どこまでも素数の形状にのみに関心が寄せられています。フェルマの小定理の場合と同様に、古典ギリシアの数論の外部の世界に向けて一歩を踏み出そうとする心情が、ここにもまた現れています。


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フェルマの数論4 フェルマの小定理と完全数

 完全数というのは、「自分自身を除くすべての約数の総和に等しい」という性質を備えた数のことです。たとえば、数6の自分自身を除く約数は1、2、3で、総和を作ると1+2+3=6となり、出発点の数6に立ち返ります。それゆえ、6は完全数です。また、数28の自分自身を除く約数は1、2、4、7、14ですので、総和は1+2+4+7+14=28となり、28もまた完全数であることがわかります。
 完全数は古典ギリシアでもすでに着目されていて、ユークリッドの『原論』にはおもしろい形の完全数が取り上げられています。nは自然数として、S_n=2^n-1という形の数を作ります。今日の数論でメルセンヌ数と呼ばれている数ですが、もしこれが素数なら、
     S_n×2^(n-1)
という形の数は完全数になるという命題が『原論』に記載されています。たとえば、S_2=3は素数ですから、S_2×2=6は完全数です。また、S_3=7も素数ですから、S_3×4=28も完全数です。この二つの数が完全数であることは先ほど直接計算して確かめたとおりです。
 もう少し例を挙げると、n=5のとき、S_5=31は素数ですから、S_5×2^4=496は完全数。n=7のときはS_7=127となり、これも素数ですから、S_7×2^6=8128も完全数です。
 ここにおいてフェルマが関心を寄せたのは、メルセンヌ数はどのような場合に素数になるだろうかという問題でした。フェルマの小定理はひとつの解答を与えています。実際、もしn+1が奇素数なら、その場合、2とn+1が互いに素であることは明白ですから、フェルマの小定理によりメルセンヌ数S_nはn+1で割り切れることがわかります。たとえば、n+1=7は素数ですから、S_6=63は7で割り切れます。また、n+1=13も素数ですから、S_12=2^(12)-1=4095は13で割り切れます。実際、4095=13×315となります。
 メルセンヌ数は2の冪から1を差し引いた形の数ですが、フェルマは2の代りに任意の数aを取り、aの冪から1を差し引いた数、すなわちa^n-1という形の数の考察に移りました。この場合、フェルマの小定理の教えるところによれば、n+1が素数であって、しかもaを割り切らないなら、a^n-1はn+1で割り切れます。このあたりにフェルマの小定理の真意がひそんでいます。
 メルセンヌ数は完全数と連繋していますが、2以外の数の冪が登場する場合に移ると、この連繋は遮断されてしまいます。完全数から出て完全数から離れていくということで、ここにおいて数の理論は新たな世界へと分け入っていくという感慨に襲われます。何気ない歩みのように見えますが、この一歩には、古典ギリシアの数論に別れを告げて、西欧近代の数論が始まることが鮮明に示されています。

フェルマの数論3 継承と創造

 西欧近代の数学において継承と創造ということを考えるとき、古典ギリシアの数学の遺産が継承された様子については明白ですが、問題は「創造」についてです。フェルマが発見した数論の諸命題にはディオファントスを超える何物かが認められるだろうかということが問題になるのですが、この点を具体的に指摘することができなければ、西欧近代の数学における数論を語る値打ちはありません。はたしてどうだろうと思いながら観察してみると、フェルマの数論には古代のギリシアにはない新しい視点が確かに認められることに気がついて、当初の不安はたちまち解消されてしまいます。
 フェルマが提示した数論の諸命題の中で今もよく知られているものを挙げると、まず「フェルマの小定理」、次に「直角三角形の基本定理」、それから「多角数による数の表示に関する定理」、さらにもうひとつ、「フェルマの大定理」あたりでしょうか。「フェルマの小定理」と「直角三角形の基本定理」はオイラーが証明しました。「多角数による数の表示に関する定理」は、三角数や四角数のような簡単な場合にはそれほどむずかしくありませんが、一般のn角数の場合を考えると難問になります。「フェルマの大定理」はフェルマが「バシェのディオファントス」に書き込んだ48個の命題のひとつですが、証明がむずかしくて最後まで未解決のまま残りましたので、「最後の定理」と呼ばれることもあります。
 試みにこれらの命題を古典ギリシアの数論と比較してみたいのですが、まず「フェルマの小定理」は、奇素数p(2以外の素数はすべて奇数です。それらを総称して「奇素数」と呼んでいます)とpで割り切れない数aを対象にして、「aの(p-1)次の冪をpで割るとき、剰余はつねに1になる」というふうに表明されます。
 この命題には素数というものの属性のひとつが現れています。素数に寄せる関心なら古代ギリシアの数学にもすでに表れていました。そもそも素数という観念があったのはまちがいありませんし、素数が無限に多く存在することもまた認識されていました。それと、素数の話ではありませんが、完全数への着目も見られます。これはつまり「数の個性」に関心が寄せられていたということにほかなりません。これらの話はユークリッドの『原論』に記載されているのですが、これにディオファントスの『アリトメチカ』が加わったのが、古代ギリシアの数論的世界です。
 フェルマの小定理にはなおもうひとつ、考察を加えなければならない論点があります。ここに素数の属性が反映しているというのはそのとおりですが、それだけではまだ「数の冪を素数で割る」ということに着目した理由が明らかにならないからです。この問いを考えていくと完全数との関連に思い当ります。

フェルマの数論2 「バシェのディオファントス」

 西欧近代の数学は古代ギリシアの数学を継承しながらも、独自の創造に向っていきました。そのような話をしたいと思い、まずはじめにデカルトの著作『方法序説』を取り上げて、古典ギリシアの人パップスの著作『数学集録』を見るデカルトの視点を紹介したのですが、もうひとつの著しい事例はフェルマの数論です。
 西欧近代の数学の成立にあたって古代ギリシアの数学が大きな影響を及ぼしたのはまちがいなく、しかもその影響の諸相は随所に非常に具体的な形で表れています。この影響の様子を具体的に観察したいのですが、フェルマの数論の場合、デカルトにおけるパップスに対応するのはディオファントスの著作と伝えられる『アリトメチカ』です。ディオファントスは紀元3世紀の人という伝承が残るギリシア人で、『アリトメチカ』もギリシア語で書かれていますが、西欧の近代においてラテン語に翻訳されるという出来事がありました。ラテン語訳の成立それ自体にも物語がありますが、まずはじめに翻訳を試みたのはクシランダーという人で、続いてバシェという人が現れて、新たに翻訳書を出しました。その書名は、実に、

『いまはじめてギリシア語とラテン語で刊行され,そのうえ完璧な注釈をもって解明されたアレクサンドリアのディオファントスのアリトメチカ6巻,および多角数に関する1巻』

というのです。バシェはクシランダーの訳書を参考にしたことでしょうし、それなら二度目の試みになるところですが、それにもかかわらず「いまはじめて刊行された」いうのはなぜかというと、「ギリシア語とラテン語で刊行された」のがはじめてということと思います。この書物の実物は日本にもあり、見たことがありますが、ギリシア語の減塩とラテン語の翻訳が併記された対訳本です。全13巻のうち6巻だけ残存していましたので、その6巻のみが訳出されました。
以下、この対訳書を「バシェのディオファントス」と呼ぶことにします。
 「バシェのディオファントス」が刊行されたのは1621年のことですが、フェルマはこれを読み、欄外の余白に48個のメモを書きました。これが名高い「フェルマの欄外ノート」です。メモの中味はみな数論の命題で、今日のいわゆる不定方程式の問題が多いところに特徴があります。フェルマは「欄外ノート」のほかにも、友人に宛てた手紙の中でいくつもの数論の命題を伝えました。全部合わせると相当の個数になりますが、これだけではまだ数論が始まったとは言えません。なぜなら、フェルマは発見した命題を書き並べるのに終始して、証明を書かなかったからです。もっともときおり証明のスケッチを描き留めることもあり、それらを通じて、フェルマは「無限降下法」という独自の方法を手にしていた様子が見て取れます。
 証明がなければ、真偽の定かでない一群の命題が表明されたというだけのことに留まりますし、まだ数論が成立したとは言えませんが、他方、フェルマのメモがなかったなら数論はありえなかったこともまたまちがいありません。フェルマの諸命題に証明を与えようと試みて成功した最初の人はオイラーで、オイラーの登場により、フェルマの数論は数論の名に相応しい風格を備えるにいたりました。フェルマが播いた種がオイラーを待って芽生えたということになります。ひとりのオイラーが出現すると、その後は一瀉千里。ラグランジュ、ルジャンドル等々と、フェルマの数論の道が伸びていきました。

フェルマの数論1 ピエール・ド・フェルマ

 フェルマの生地はフランスの都市ボーモン=ド=ロマーニュです。生誕日は1601年8月17日とするのが従来の通説でしたが、2001年になってドイツのカッセル大学のクラウス・バーナーという人が通説を覆し、フェルマの真の生誕日は1607年の年末もしくは1608年の年初ではないかという新説を提示しました。おおむね受け入れられたようで、フェルマは6歳ほど若返ることになりました。フェルマの子供にサミュエルという人がいて、サミュエルによるフェルマの墓碑銘に「1665年1月12日に57歳で亡くなった」と刻まれているということで、これを根拠に採るとフェルマの生誕日は1607年1月13日から1608年1月12日までの間になることになります。バーナーはなお調査を続け、1607年の10月31日と12月6日の間に生れたという結論に達しました。
 墓碑銘の記述を疑う余地はとぼしそうですから、バーナーの調査の信憑性は非常に高そうに思われます。それなら従来の通説の根拠は何だったのだろうという疑問が生じますが、その根拠というのはフェルマの洗礼の記録で、「1601年8月17日に生れて8月20日に洗礼を受けた」と記録されているということです。これはこれで疑うのがむずかしいことですし、墓碑銘の記事と洗礼の記録という、ともに信憑性の高い二つの記録のうち洗礼の日付が通説になっていたのでした。
 通説をくつがえすには、洗礼の日付について何かしら新たな事実を明るみに出す必要があります。バーナーの調査によると、1601年8月17日にフェルマ家に子供が生れたのはまちがいが、その子供の名前はPierre(ピエール。数学者のフェルマの名。2個のrが連なっています)ではなく、Piere(同じくピエールですが、名前の表記にrが1個しかありません)で、しかも生後まもなく亡くなったというのです。それから1607年になって子供が生れ、Pierreという名前をつけました。このピエールが数学者のピエールであるというのがバーナーの主張で、信憑性は高そうに思います。
 フェルマは長じて法律関係の仕事につき、その合間を見て数学的思索にふけったと言われています。数学研究で生計を立てていたわけではありませんので、アマチュアの数学者と呼ばれることも多いのですが、法律関係の仕事とはどのようなものなのか、どうもよくわかりません。それに、アマチュアということでしたらデカルトもそうでした。
フェルマやデカルトと同時代のメルセンヌという人がいて、『普遍的なハーモニー』(Harmonie universelle、アルモニ・ウニヴェルセル。全2巻)という著作を遺しました。前半の第1巻の刊行は1636年。これを「第1部」として、翌1637年に「第2部」が刊行されて完結しましたが、第1部の緒言にフェルマの名が登場する場面があります。
 メルセンヌの著作のテーマは音階論ですが、数論が話題にのぼり、友愛数が語られるのはいかにも不思議です。友愛数は古典ギリシアの数論的世界において特別の位置を占め、(220, 284)という一組の友愛数が発見されました。220=2^2×5×11のすべての約数を書き並べると、
   1,   2,      2^2
   5,   2×5,    2^2×5
   11,  2×11,   2^2×11,
  5×11, 2×5×11, 2^2×5×11
となり、総和を作ると、
   (1+2+2^2)×(1+5+11+5×11)=7×72=504
となります。ここから220を差し引くと、220の「自分自身を除くすべての約数の総和」が得られますが、それは284にほかなりません。
 同様に計算を進めると、284の自分自身を除くすべての約数の総和は220になることがわかります。このような状勢を指して、二つの数220と284は友愛数であるというのですが、フェルマはもう一組の友愛数(17296, 18416)を発見した人物です。そこでメルセンヌはフェルマに言及したのでした。
 メルセンヌはフェルマのことを「トゥールーズのConseiller au Parlement」と紹介しました。トゥールーズはフェルマの生地です。Conseiller(コンセイエ)は「顧問」「審議官」「理事」「参事官」などという意味の言葉のようで、Parlement(パルルマン)にはしばしば「高等法院」という訳語があてられます。フランス革命以前のフランスのブルボン朝はアンシアン・レジーム(旧体制)と呼ばれていますが、その社会での最高司法機関がパレルマンで、フランスの各地に存在しました。トゥールーズにも高等法院があり、フェルマはその高等法院に所属する審議官ということになりそうですが、どのような仕事をしていたのか、正確なことはわかりません。

デカルトと代数学11 代数の力と発見の喜び

 岩田好算は菊池と出会った年の翌年(明治11年)7月に亡くなりました。数えて67歳でした。それから7年の歳月がすぎて明治18年(1855年)になり、『東京數學物理學會記事』第1巻に、「岩田の問題」に独自の解答を寄せる論説「岩田好算翁ノ問題の別解並ニ敷衍」が掲載されました。著者は新進の天文学者、寺尾壽です。
 『東京數學物理學會記事』は『東京數學会社雜誌』の後継誌ですが、誌名の変更の背景には学会の改組という出来事がありました。東京数学会社が東京数学物理学会に変ったのですが、その時期は明治17年(1884年)6月です。菊池大麓の提案を受けて、数学のほかに物理学と星学に携わる者も加えることになりました。
 寺尾壽は福岡の人で、生年は安政2年(1855年)。父は寺尾喜平太といい、福岡藩士です。東京外国語学校、次いで開成学校に学びましたが、開成学校は寺尾の在学中の明治10年に東京大学になりましたので、寺尾が卒業したのは東京大学です。理学部物理学科に学んだのですが、東京外国語学校ではすでにフランス語を学び、開成学校と東京大学ではフランス人のお雇い教師のエミール・レピシェに天文学を学んでいます。明治12年、フランスに留学し、パリのモンスウリ天文台で天文学を修業するとともに、パリ大学では数学とぼとぼ亭天体力学を学びました。
 明治17年、寺尾は帰国して東京大学理学部星学科の教授に就任しました。日本の天文学の草分けと見られる人物です。その寺尾が「岩田の問題」に着目したのですが、寺尾の目には「岩田の問題」は「問題」(プロブシム)ではなく「説論」(テオレム=理論)と映じたようで、これを「岩田翁の説論」と名づけました。そうしてこれをやすやすと解くとともに、敷衍、すなわちいっそう一般的な問題を提出し、それも解きました。岩田翁のように52枚もの紙片は必要ではなく、わずかな頁でやすやすと正解に達しました。
 寺尾は代数の力を借りました。交叉する二本の直線の交点を原点と見て、二直線を軸とする斜交座標を定め、二つの座標軸に接する楕円を表す方程式を書き下します。4個の円についても同じことを実行し、そのうえで円が楕円に外接もしくは内接するという条件を順次書いていけば、おのずと正解に導かれます。寺尾がしたことは「パップスの問題」を解いたデカルトと同じことで、問題の解決にあたって発揮される代数の力が目にあざやかです。
 ただし、寺尾は西欧近代の代数学の成果に依拠したのであり、自分ひとりで代数学を構築したわけではありません。これに対し岩田はひとりで解答のすべてを書き上げたのですから、寺尾の解答がどれほどあざやかであろうとも、これをもって寺尾のほうが岩田翁より偉いということにはならないというのが、菊池の所見です。菊池は次のように言っています。

≪岩田先生は非常に苦心をして五十二枚の紙に書上げた草稿を持つて來た。それは、總て其處に行く所の經路をすつかり自分でやつたのであります。其總ての經路が、一般に公になつてあると、譯なく出來る。現に其定理寺尾君は後に之を解して、數學物理學會記事の僅かに一頁か、二頁で、其解が出來て居るといふ譯であります。併しながら之を以て、寺尾君が、岩田好算翁より豪いと、云ふ證拠にはならぬ。兎に角、寺尾君は總てのその經路の定理が、總ての學者の公のものになつて居る、これを用ひて解したから容易い。岩田先生のは、初から仕舞迄自分の力で行かなければならぬと云ふのであるから、困難である。≫

 岩田は寺尾が書き綴ったみごとな解法を見ることはできませんでしたが、たとえ見たとしても、驚愕し感嘆して自分の解答を恥じるようなことは決してなかったろうと思います。なぜなら寺尾の解答には発見の喜びが伴っていないからです。高い普遍性を備えた解答ではありますが、代数の力で解いているのですから寺尾でなくてもだれが解いても同じことです。
これに対し岩田の解法はどこまでも岩田ひとりの工夫の所産であり、この解法の発見にたどりついたときの磐田の喜びが目に見えるような思いがします。普遍的でもなく一般的でもありませんが、ひとりひとりの発見の喜びこそ、数学という学問を支える究極の基盤です。

デカルトと代数学10 岩田好算と菊池大麓の出会い

明治10年の秋のある日、東京で東京数学会社のはじめての会合がもたれたとき、菊池は岩田好算に出会いました。数え年でいうと、このとき岩田翁は66歳。菊池はようやく22歳という若さでした。菊池は蘭学の家に生れ、二度にわたってイギリスに滞在して西欧近代の数学を学んだ人ですから和算とはまったく無縁です。和算とは算盤(そろばん)のことと思っていたというくらいの認識しか持ち合わせていなかったのですが、その菊池の前に老和算家岩田好算が現れたのでした。しかも岩田翁の手には52枚に及ぶ紙片があり、そこには和算の一問題とその解答が書かれていました。
 岩田翁の草稿にはこんな問題が記されていたと、菊池は紹介しました。

≪平面上に2本の相交わる直線と、それらに接する楕円を描き、さらにその楕円および2直線に接する4個の円を描くと、それらの4個の円の半径は比例する。≫

 岩田自身は『東京數學会社雜誌』第1巻誌上で「今有如圖以両挟橢圓容量元亨利貞四圓只云元圓径若干亨圓径若干利円径若干問得貞圓径術如何」と、42個の漢字を連ねて問題を提示しました。菊池はこれを書き直したのですが、中味は同じことで、「まあ今の言葉で言ふとさう云ふやうになるのですが、和算で言ふとなかなかさう云ふ風には書てないが、今日の問題にすればさう云ふことになる」というのが菊池の所見です。真に驚嘆に値するのはその解答で、菊池は52枚の半紙に書き表された解を見て、「このような学問が日本にあるものか」「和算というものはなかなかえらいものだ」と感嘆したのでした。
 次に引くのはこの間の心情を綴る菊池の言葉です。

≪此解は「元治元年八月ヨリ慶應二年五月ニ至リ漸ク成ル。紙筆ヲ費スコト尠カラズ」云々と云ふことで、大變なものであつた。非常な苦心と、非常な勉強を以て、斯う云ふ事を研究されたのであります。之を見て、私は實に驚いたのであります。之は大變なものだ。斯の如き學問が、日本にあるものかと思つて、初めて和算と云ふものは、なかなか豪いものである、と云ふことを、感じて、密に、之はどう云ふものが、機があつたら、どうぞ、知りたいものだと云ふ考を起した――≫

 菊池自身は和算研究に踏み込むにはいたりませんでしたが、和算書の蒐集を思い立ちました。今のうちに集めておかなければ、古い数学の書物はついになくなってしまうだろうという考えたためで、これが今日に続く和算史研究のはじまりです。

デカルトと代数学9 菊池大麓の帰朝

 岩田好算は関流の和算を学んだ人ですが、関流の始祖の関孝和の生涯は必ずしも明瞭ではなく、生地も生年も諸説があります。没年については定説があり、宝永5年(1708年)10月24日ということになっています。この日付は明治5年12月2日まで使われていた天保暦(旧暦)によるもので、天保暦の10月24日は現在のグレゴリオ暦に換算すると12月5日が該当しますから、明治40年12月5日は関孝和の200年忌になります。
 これを記念して、この日、東京高等商業学校大講堂で「本朝数学通俗講談会」が開催されました。主催は東京数学会社の後身の東京数学物理学会。午後6時に開講し、9時半に及びました。座長は藤澤利喜太郎。林鶴一の「関孝和先生の事蹟に就て」、狩野亨吉の「記憶すべき関流の数学家」、菊池大麓の「本朝数学に就て」という三つの講演が行われ、1000有余名が参集するという大盛会になりました。講演の記録は翌明治41年に刊行された『本朝数學通俗講演集 : 関孝和先生二百年忌記念』に収録されました。
 菊池大麓は安政2年1月29日、津山藩士の箕作秋坪(みつくりしゅうへい)の次男として江戸天神下(現在の新宿区喜久井町)の津山藩松平家の下屋敷に生れました。父は菊池家に生れて箕作家に養子に入った人で、箕作家に生れた大麓は父の実家の姓を名乗りました。父秋坪も祖父阮甫(げんぽ)も高名な蘭学者でした。幕末の動乱期にさしかかり、徳川幕府は洋学研究の必要に迫られて蕃書調所を開設しましたが、文久元年正月、菊池は蕃書調所に入学して英語の修業を始めました。この時点で菊池は満7歳と1箇月の少年でした。
 慶應2年10月、徳川幕府が幕臣の子弟14名を選抜してイギリスに派遣したとき、留学生の中に菊池大麓も混じっていました。この時点でまだ11歳の少年でした。ロンドンで幕府瓦解の報に接して帰国し、維新の後、今度は明治政府の派遣する留学生として再びイギリスに渡り、ケンブリッジ大学で数学を学びました。この二度目のイギリス留学は足掛け8年に及び、明治10年6月になってようやく帰国の途につきました。西南戦争のさなかのことでした。
 明治維新後10年がすぎて学制も整いつつありました。東京開成学校と東京医学校が合併して東京大学が設立されたのは明治10年4月12日のことで、法医文理の4学部が設置されました。理学部には数学科と物理学科と星学科がひとつの学科になって「数学物理学及び星学科」がありましたが、これは学生の数が非常に少なかったためで、こののち学生が増えていくのにつれてこれらの三学科も独立していきました。
 帰朝したばかりの菊池は理学部教授に任命されて数学を担当しました。このとき菊池は満22歳。大学に所属する最初の数学者でした。

デカルトと代数学8 岩田の問題

 デカルトとパップスの出会いは優に千年をこえる歳月を隔てて生起した夢のような出来事で、西欧近代の数学はまさしくここから始まると宣言しても決して過言ではありません。これほど大掛かりな事件ではないものの、明治のはじめの日本でも本質において相通じる出来事がありました。それは和算の岩田好算と天文学の寺尾壽との学問上の遭遇で、「岩田の問題」をめぐって生起したエピソードです。
 岩田好算は文化9年(1812年)に江戸に生れた人で、名は専平。関孝和の系譜に連なる和算家です。明治10年(1877年)9月、日本中の数学関係者117人が一堂に会して東京数学会社が設立されたとき、岩田も参加して社員になりました。会社というのは今日の言葉では学会のことです。機関誌に『東京數學会社雜誌』があり、第1巻が発行されたのは明治10年11月。その第1巻、第9套「本朝数学」に岩田が寄稿した記事が記載されています。
岩田は、

≪今有如圖以両挟橢圓容量元亨利貞四圓只云元圓径若干亨圓径若干利円径若干問得貞圓径術如何≫

と説き起しました。添えられた図を見ると、平面上に二本の斜線が引かれていて、それらに楕円が挟まれています。もう少し詳しく言うと、楕円は二本の斜線に接しています。楕円のほかに4個の円が描かれていて、それぞれ元、亨、利、貞という名が附されています。これらの円はどれもみな二本の斜線に接していますが、そればかりではなく、元と貞は楕円に外接し、亨と利は楕円に内接しています。ここまでが「今有如圖以両挟橢圓容量元亨利貞四圓」の文意です。
 「元圓径若干亨圓径若干利円径若干」という文言が続きますが、ここから読み取れるのは、元亨利三円の直径は指定されているという一事です。そのうえで、「問得貞圓径術如何」。残されているもうひとつの円「亭」の直径を手に入れるには、どのようにすればよいのかと問われています。いかにもおもしろい形の問題ですが、これを解くのは実にむずかしく、元治元年(1864年)8月から慶應2年(1866年)5月にいたるまで、実に2年に及ぼうとする歳月を要したと岩田は回想しています。

≪此解義ハ元治元年八月ヨリ慶應二年五月ニ至リ漸ク大成ス紙筆ヲ費ス事少カラス其解中幾乗数ヲ累ネテ本術ヲ得難キ事数々タリ又空数ヲ求ムレバ全象誠ニ空ニシテ本術ヲ得ザル事多端タリ故ニ切磋琢磨ノ巧ヲ積ンデ今本術ヲ得タリ幸甚ノ之後学ノ楷梯ニ備フルナリ≫

 元治元年の岩田はすでに52歳。2年後の慶應2年には54歳になっています。「其解中幾乗数ヲ累ネテ本術ヲ得難キ事数々タリ」、「又空数ヲ求ムレバ全象誠ニ空ニシテ本術ヲ得ザル事多端タリ」と苦心に苦心を重ねた日々を回想し、それから明治維新をはさんで12年ののちに東京数学会社の創設を見て、『東京數學会社雜誌』の第1巻に問題と解答を寄せたのですが、そのおりに「紙数五十二枚此解ヲ縦覧セントスルモノハ本社来ル可シ」と言い添えました解答を叙述するのに要した紙片は実に52枚。見たいものは東京数学会社を訪ねよということで、さりげない数語の中に発見の喜びがいっぱいに詰まっています。

デカルトと代数学7 微分法への道を開く

デカルトの著作『幾何学』の契機になったのは、古典ギリシアの数学者パップスの著作と伝えられる『数学集録』という書物でした。そこには「パップスの問題」のようにとても思いつきそうにない卓抜なアイデアで解かれた問題や、「3線・4線の軌跡問題」のように、最終的な解決にいたらないまま放置されている問題が書き留められていましたが、デカルトは新しい代数学の方法を提案して、それらを一挙に解決する道筋を指し示しました。みごとな成功をおさめたのですが、真に驚くべきなのは、パップスとデカルトの間にはおよそ1300年もの隔たりがあるという事実です。
 デカルトが提案した代数学の方法は数々の新たな問いの泉になりました。「パップスの問題」は4次の代数方程式の解法に帰着され、平方根のみを用いて根を表示することができましたが、帰着されていく代数方程式の次数が4次をこえてしまう作図問題はどうしたらよいでしょうか。解けるか否かも定かではありませんし、そもそも代数方程式を「解く」というのは、どのようなことを指してそのように言うのでしょうか。5次およびより高次の代数方程式の解法の探究という課題がこうして出現しますが、この問題はもう作図問題とは無縁です。
歴史を回想すると、チルンハウス、ベズー、オイラー、ラグランジュなど、5次方程式の解法の探索が連綿と続きました。この流れは天然自然の湧き水ではなく、源泉には「コギト・エルゴ・スム(われ思う。ゆえにわれあり)」に象徴されるデカルトの特異な思想が横たわっています。
 3線と4線の作図問題は代数学の力により解決されて、円錐曲線であることが確定しましたが、5線、6線、・・・と、線を増やしていくとどのようになるでしょうか。一般に「n線の作図問題」も考えられます。代数学の力を借りて、求めようとする点の軌跡を表す代数方程式を書き下すことはできますが、線の本数が増えていくのにつれて方程式の次数はまたますます高くなっていきます。そのような方程式が表す曲線はどのような形になるのでしょうか。この問いが重い意味合いを帯びているのは、概形が描けなければ作図問題が解けたとは言えないからです。
 次に引くのは曲線を方程式で表すことを語るデカルトの言葉です。

〈ひとつの曲線のすべての点が或る直線のすべての点にたいしてもつ関係を前述の仕方で知っておけば、その曲線の点が他のすべての点や与えられた線にたいしてもつ関係を見いだすこともやさしい。続いて、直径や軸や中心、そのほか各曲線が他のものにたいしてもつ以上に特別な関係または単純な関係をもっている線や点を知り、それらを描くさまざまな方法を想像し、そのうち最も容易なものを選ぶこともやさしい。〉

次に引くのは『幾何学』第2巻に見られる小見出しのひとつです。

〈曲線のすべての性質を見いだすためには、そのすべての点が直線の点にたいしてもつ関係を知り、またその曲線上のすべての点でこれを直角に切る他の線をひく方法を知れば十分であるということ。〉

 「曲線のすべての点が直線の点にたいしてもつ関係を知る」というのは、曲線を方程式で表すことを指し、「その曲線上のすべての点でこれを直角に切る他の線」とは法線のことにほかなりません。法線を知るのも接線を知るのも同じことですから、法線もしくは接線を引くことに曲線を知るための究極の鍵があると、デカルトは語っていることになります。
 このようなデカルトの考えによれば、作図問題の解を教える方程式が表す曲線を知るには接線もしくは法線を自在に引くことができるようになることが肝心です。これが実現したなら、そのとき曲線の姿が精密にわかり、諸性質が明らかになるというのですが、この考え方は次の世代のライプニッツに継承されて、微分法という一個の大きな果実が実りました。

デカルトと代数学6 3線と4線の軌跡問題

 「パップスの問題」を見ると、幾何学の作図問題と代数方程式とを連繋する架け橋が目に浮かびますが、デカルトの『幾何学』にはもうひとつ、「3線と4線の軌跡問題」という際立った問題が語られています。次に引くのは「3線と4線の軌跡問題」を語る言葉です。デカルトはこれをパップスの『数学集録』から引用しました。ギリシア語の原典からではなく、コマンディノによるラテン語訳から引かれていますが、すべての人がより容易に理解しうるようにというのがその理由です。

≪彼(アポロニウス)は3線および4線の軌跡問題に寄与したことを大いに誇り、彼より先にこれを論じた人に何らの感謝をも示していないが、この問題は次のようなものである。3本の直線が位置に関して与えられたとき、1点からこれらの3線に与えられた角をもって直線がひかれ、そのうちの2線に囲まれた矩形が残る線による正方形に対して与えられた比をもつならば、この点は位置に関して与えられた立体軌跡、すなわち3種の円錐曲線のひとつに属する。≫

 「位置に関して」といういくぶん不思議な印象の伴う言い回しが見られますが、これを要するに平面上に3本の直線が引かれているということにほかなりません。それらの3線に向けて、ある一定の角度を指定して平面上の点から出発して線を引くと、3本の線分が現れます。それらのうちの2本を用いて矩形、言い換えると長方形を作り、残る1本の線分については、それを1辺とする正方形を作ります。このように情勢を設定したうえで、長方形と正方形の面積の比があらかじめ指定された一定値になるという条件を課し、これを満たす点の作る軌跡はどのような曲線になるだろうかと問うのが「3線の軌跡問題」です。答は3種の円錐曲線のどれかしらになると言われていますが、「パップスの問題」の場合のように証明が記されているわけではありません。
 3種の円錐曲線というのは楕円、双曲線、放物線のことで、円錐を平面で切るときの切り口に現れる曲線を切り方に応じて3種類に区分けして別々の名で呼んでいますが、ひとくちに円錐曲線と総称しています。「立体曲線」というのは円錐が立体であることに由来する呼称です。
 次に挙げる言葉もパップスの『数学集録』からの引用で、ここでは「4線の軌跡問題」が語られています。

≪位置に関して与えられた4本の直線に与えられた角をもって線がひかれ、そのうちの2線に囲まれた矩形が残る2線に囲まれた矩形に対して与えられた比をもつならば、同じくその点は位置に関して与えられた円錐曲線に属するであろう。≫

 「位置に関して」という独特の言い回しがここにも見られます。平面上に4本の直線が引かれていて、それらの各々に向けて、ある点からある角度を定めて線を引くと、4本の線分が描かれます。それらを2本ずつの組に分け、2本の線分を2辺とする「矩形」を作ります。矩形というのは長方形のことです。こうして作られる二つの長方形の面積の比が、あらかじめ指定された一定値になるような点が描く曲線の形を問うのが4線の軌跡問題です。パップスはまたしても円錐曲線を想定していますが、確証は得られなかったようで、アポロニウスの言葉を引いてこんなふうに言っています。

≪この3線および4線の軌跡問題はユークリッドによって完全には解かれなかったものであるが、彼自身もそのほか誰もこれを解くことができなかったし、ユークリッドの時代までに円錐曲線について前もって示されていたことのみによっては、ユークリッドが書いたことに何ひとつ加えることもできなかった。≫

 デカルトの数学の心を刺激したのはこのようなパップスの言葉でした。自分で考案した新しい方法により古典ギリシアの難問を解こうとするところにデカルトの創意が現れています。デカルト自身、

≪実はこのことが機縁となって、私は自分の方法によって彼らと同じところまで進むことができるかどうかためしてみようと思い立ったのである。≫

 「パップスの問題」は4次の代数方程式の解法に帰着させることによりやすやすと解くことができましたが、3線と4線の軌跡問題の場合には、デカルトは曲線を方程式で表すという方針を立てました。これらの問題で要請されている点の軌跡が満たすべき方程式を書き下し、そのうえでその方程式が表す曲線を描くことができたなら問題は解決します。この手順を遂行すると次数2の代数曲線が出現し、円錐曲線であることは一目瞭然です。
 デカルトのいう方程式はつねに代数的であることも瞠目に値する事実です。幾何学の作図問題を解くのにいったん代数方程式の世界に身を移し、適宜計算を遂行したのちに作図問題に立ち返り、計算の帰結を解釈して問題の解決にいたるという道筋をデカルトは示しました。このような思索の様式は今日の数学にもそのまま生きて働いています。

デカルトと代数学5 鶴亀算と連立1次方程式

パップスの問題に対するデカルトの解法は、鶴亀算を解くのに連立1次方程式をもってする方法にとてもよく似ています。鶴亀算というのは、鶴と亀の総数と足の総本数(鶴の足は2本、亀は4本と数えます)がわかっているとしたとき、鶴と亀はそれぞれ何匹いるかと問う問題ですが、たとえば「そこにいる亀がいっせいに立ち上がった」という状況を思い浮かべるとたちまち解決します。
実際、亀が立ち上がれば亀一匹ごとに足の本数が2本ずつ減って2本ずつになりますから、鶴と亀の足の総本数は鶴と亀の総数の2倍になります。その本数を指定された総本数から差し引いて2で割れば、その商は亀が何匹いるのかを教えています。言葉で説明しようとするとまわりくどくなってしまいますが、実のところ、亀がいっせいに立ち上がった情景が心に描かれたなら、その瞬間に明晰判明な解答が手に入ります。多少の計算をする必要はありますが、ひとつひとつの計算に意味があり、何をすればよいのかも、何をしているのかも、いっさいが明らかです。発見の喜びさえ、この解答には伴っています。
ただし、この解法が適用されるのは鶴亀算に対してのみですから、普遍性や一般性は欠如しています。それに、だれもがたやすく思いつくわけではないこともまちがいなく、この点はパップスの解法にとてもよく似ています。
 これに対し、連立1次方程式を立てるという方針に沿うと、鶴がx匹、亀がy匹いるとして、xとyを未知数と見て二つの1次方程式を書き下します。その後は代数計算の規則にしたがって式変形を繰り返すだけでxとyの数値へとおのずと導かれます。その計算の途次、xとyが何を表しているのかということを顧慮する必要はなく、式変形の仕方にも固有の意味はありません。
この解法には普遍性と一般性があり、鶴亀算のほかにもさまざまな問題に適用することができます。問題を解くという方面から見ると実に強力ですし、しかもだれもがやすやすと歩むことができるのは大きな利点です。その反面、特別のアイデアは不要なうえに、単純な式変形を繰り返すだけですから、この方法で問題を解いても発見の喜びは出る幕がありません。そのあたりの消息はデカルトによるパップスの問題の解法の場合と同じです。
 デカルトの解法をパップスが知ったなら、パップスはどう思うでしょうか。デカルトの解法が指し示した明晰判明な道筋はいかにも平易であり、デカルトでなくてもだれもがやすやすとたどることができますが、まさしくそれゆえに、その人ならではというおもしろさはありません。自分ひとりだけの解法を編み出したパップスがデカルトの解法に共鳴し、共感して讃嘆するというようなことはなく、かえって自分が発見した解法に寄せてあらためて深い愛着を抱くのではないかと思います。

デカルトと代数学4 パップスの問題(2) デカルトの解法

デカルトはパップスの解法を紹介したのちにこれを批評して、「この作図法は、それを知らぬ人にとってはなかなか思いつきにくいものであろう」と指摘しました。確かにそのとおりで、思いついた当の本人にとってはすばらしい発見ですし、解法を示されれば確認することもできます。ではありますが、数学的発見は発見した人のものであり、だれもが同じ解法を発見できるわけではありません。これを言い換えると「普遍性がない」ということで、デカルトの批判の要点もそこにあります。
 これに対しデカルトはまったく別の解法を示しました。それは代数の力を借りる解法で、パップスの問題に関連するさまざまな量に名前をつけることから始まります。既知量や未知量にアルファベットを割り当てるのですが、正方形は与えられているのですからその1辺の長さは既知です。そこでアルファベットのはじめのほうの文字を用いて、これをaで表します。また、あらかじめ線分が与えられていますから、その長さも既知量で、これをbで表します。点Eの位置を定めるのは点Fの位置を定めるのと同じことですが、それらの位置は不明なのですから、たとえば線分FDの長さは未知量です。そこでこれをアルファベットの末尾のあたりの文字xで表します。
 このように準備を整えたうえで3個の量a、b、xの関係を考えると、適当な位置にある二つの相似な直角三角形に着目することにより代数方程式が現れます。それは未知量xに関する4次方程式で、係数は既知量a、bで組み立てられています。4次方程式ならデカルトの時代の前の世紀、すなわち16世紀のイタリアの数学者たちの手で代数的解法が発見されています。タルターリアとシピオーネ・デル・フェッロは3次方程式、フェラリは4次方程式の解法に成功しましたが、3次方程式の解法はカルダノの公式と呼ばれるようになりました。カルダノは『大技術、あるいは代数学の法則について』(1545年)という著作において3次と4次の方程式の解法を紹介したのですが、そのおり発見した人の名を書かなかったので、まるでカルダノが自分で発見したかのような光景が現れたのでした。
 カルダノの著作の書名に見られる「大技術」の原語はars magna(アルス・マグナ)で、これを採って「カルダノのアルス・マグナ」と呼ばれることもあります。
 西欧近代の数学の黎明期はデカルトとフェルマの時代と見てよいと思いますが、3次と4次の方程式の解法の発見はさながら黎明期の出現の予感を内包する「夜明け前」の出来事でした。デカルトもこれを承知していましたので、4次方程式ならやすやすと解くことができました。しかも根の表示式は、係数に現れる既知量に対して、加減乗除の四演算のほかに「平方根を開く」という演算を繰り返し適用することによって組み立てられています。そこで定規とコンパスのみを使うことにより、この表示式を構成するさまざまな数値を作図することができます。これで線分FDの長さが作図され、点Fの位置が定まります。デカルトはこのようにしてパップスの問題を解きました。
 デカルトの解法では、どの線分を未知数xとするのかという論点は残されています。これについて、デカルトは

〈上に提出された方法にしたがって作図を求めるとしても、DGを未知量としてとることはけっして思いつかず,むしろCFかFDを未知量に選ぶであろう。最も容易に方程式に導くのはこれらの量だからである。〉

と指摘しています。どこを未知数にしても解けることは解けると思いますが、わざわざDGを選ぶ人はいないだろうというのですが、一理があります。デカルトのいう良識(ボンサンス、bon sens)が働いて、もっとも適切な線分がおのずと選択されるだろうと言いたいかのような印象があります。

デカルトと代数学3 パップスの問題(1) パップスの解法

 デカルトのいう幾何学的曲線というのは今日の語法では代数的な曲線、縮めて代数曲線のことで、この呼称を提案したのはデカルトの次の世代のライプニッツです。デカルトは思索を重ねた末に、幾何学において考察の対象とするべき曲線を代数曲線に限定したのですが、ライプニッツにはまた別のわけがあって、代数的ではない曲線も考えなければなりませんでした。代数曲線以外の曲線のことは超越的な曲線、縮めて超越曲線と呼びました。
 ライプニッツを語る前にデカルトの『幾何学』の内容を観察すると、この著作は次のような三つの巻で構成されています。
第1 巻 円と直線だけを用いて作図しうる問題について
第2 巻 曲線の性質について
第3 巻 立体的またはそれ以上の問題の作図について
このような巻題を一瞥するだけでもデカルトの思索の傾向がたちまち感知されるような思いがします。デカルトは作図問題を代数の計算に還元しようとして、五つの基本的な作図と代数の演算との対応を明示しました。
・ある線分に他の線分を加えること
この作図は代数の「加法(足し算)」に対応します。
・ある線分から他の線分を差し引くこと
これは「減法(引き算)」に対応します。
・二つの線分の積をつくること
これは「乗法(掛け算)」に対応します。
・ある線分を他の線分で割ること
これは「除法(割り算)」に対応します。
・ある線分の平方根を抽出すること
これは「次数2の冪根(平方根)を開く演算」に対応します。
 これらの作図はみな定規とコンパスを用いるだけで遂行可能です。定規は直線を引くのに使い、コンパスは円を描くために使われます。『幾何学』第1巻の題目は「円と直線だけを用いて作図しうる問題について」というのですが、「円と直線だけを用いる」というところを言い換えると、「コンパスと定規だけを用いる」ということにほかなりません。
上記の五通りの作図は直線と円というもっとも単純に見える曲線の力を借りて実現できますが、これらに対応する代数の演算は加減乗除の四演算と「平方根を開く」という演算です。この対応がもつ意味合いは、デカルトが『数学集録』から採取した「パップスの問題」のデカルト自身による解法を見ると明らかになりますので紹介してみます。
 「パップスの問題」においてあらかじめ与えられるのは、正方形ABCDと線分BNです。正方形の辺ACを点Cをこえてどこまでも伸ばしていきます。その延長線上の点Eと正方形の点Bを結び、その線分と正方形の辺CDとの交点をFとします。点Eの取り方は自由ですから、正方形の辺ACの延長線上において点Cから出発してどこまでも遠い地点まで到達します。それに応じて点Fと線分FEが定まりますが、その長さは0から始まって、点Eが遠ざかっていくのにつれてどこまでも限りなく大きくなりますから、あるときあらかじめ与えられた線分BNと等しい長さになることがあります。そうなるように点Eの位置を指定せよというのが「パップスの問題」です。
 むずかしい問題ですが、『数学集録』には解法が書かれています。どのようにするのかというと、正方形の辺BDを点Dをこえてのばしていき、その延長線上の点Gを、線分DGと線分DNの長さが等しくなるように定めます。それから線分BGを直径とする半円を描くと、その半円が辺ACの延長線と交差する点が定まります。その点をEとすると、線分FEの長さははじめに与えられた線分BNに等しくなるというのがパップスによる解法です。

デカルトと代数学2 幾何学的曲線とは何か

 デカルトはまったく新しい学問の方法を発見し、それを数学に適用して『幾何学』を書いたのですが、デカルトが発見した方法の根底に横たわるのはあのコギト・エルゴ・スム(われ思う。ゆえにわれあり)という呪文のような言葉です。コギト・エルゴ・スムからどうして数学が生れてくるのか、そのあたりの消息はよくわからないのですが、『幾何学』という書物を見ると、数学の場でデカルトが直面したのは古典ギリシアの作図問題で、デカルトはそれらを代数学の力を借りてやすやすと解こうとしています。それがデカルトの方法というものの具体的に現れた姿です。
 紀元3世紀の後半のころににアレクサンドリアにパップスという人がいて、『数学集録』(全8巻)という、古典ギリシアの数学の百科事典のような書物を編纂しました。デカルトはこれを読み、そこに紹介されている作図問題のいろいろを知ったのでした。
古典ギリシアの作図問題というのは実にさまざまですが、もっともよく知られているのは
 円の方形化問題(円が与えられたとき、その円と同じ面積をもつ正方形を作る。)
 角の三等分問題(「任意の角が指定されたとき、それを3 等分する。」
 立方体の倍積問題(立方体が与えられたとき、その2 倍の体積をもつ立方体を作る。)
という、三大作図問題として知られている問題です。古典ギリシアの解法の特徴は特殊な曲線を考案して、その特性を利用して作図問題を解こうとするところに現れています。実際、ディオクレスのシソイド、ニコメデスのコンコイド、ヒッピアスの円積線というおもしろい曲線が発見されて、三大問題は解決されたのですが、デカルトの心に強い印象を刻んだのは、「曲線を使って作図問題を解く」というアイデアそれ自体でした。デカルトは「そもそも曲線とはなんだろうか」という素朴な問いに襲われて、これに応じようとして、実に粘り強い思索を重ねました。そのあたりの経緯を伝える言葉が『幾何学』の大きな部分を占めています。
 パップスが生きた紀元3世紀の後半期からデカルトの時代まで、およそ1400年ほどの歳月が流れています。遠い昔の数学の書物を開くと、そこには多種多様な作図問題が繰り広げられていて、しかも「曲線の性質に基づいて解く」という不思議な解法が示されていました。そのような大昔の光景を目の当たりにするという、そのこと自体がいかにも不思議ですが、デカルトは古代ギリシアの人びとの心情に深く共感し、共鳴した模様です。「幾何学に取入れるべき曲線とは何か」という問いがそこから取り出されました。デカルトはそのような曲線を「幾何学的曲線」と呼んでいます。

デカルトと代数学1 『方法序説』

 数学者の人生を観察しながら数学と数学史を綴ろうとして、まずはじめにアーベルを取り上げたのですが、アーベルはすでに19世紀の人物です。時系列に沿って西欧近代の数学を語るということであれば、アーベルの時代から200年ほどさかのぼって17世紀のはじめに立ち返り、デカルトとフェルマに目を留めるのが本来の姿であろうと思います。
 デカルトは「われ思う。ゆえにわれあり」で知られる哲学者ですが、同時に西欧近代の数学史のはじめに登場する名高い数学者でもありました。『幾何学』という直角三角形さくがあり、この一冊によってデカルトは西欧近代の数学の始祖になったのですが、『幾何学』は単独の作品ではなく、『方法序説』という大きな著作の一部分です。
 デカルトは『方法序説』をフランス語で書きました。刊行は1637年。デカルトは1596年3月31日にフランスのラ・エーという町に生れた人ですから、41歳のときの作品です。原書名は
Discours de la méthode pour bien conduire sa raison et chercher la vérité dans les sciences.
といい、いろいろな邦訳が試みられていますが、白水社から出ている『デカルト著作集』(全4巻)では
〈自分の理性を正しく導き、いろいろな学問において真理を求めるための方法について述べる話〉
と訳出されています。デカルトが発見したまったく新しい学問の方法を語る序論と、その方法を具体的な学問にあてはめて展開してみせる本論で編成されていて、単に「方法序説」というと序論の部分のみを指すことが多いように思います。「われ思う。ゆえにわれあり」の原語は
〈Je pens, donc je suis(ジュ・パンス・ドンク・ジュスイ)〉
で、デカルトはこのように書きましたが、エティエンヌ・ド・クルセルという人がラテン語訳を作成したとき、これを
〈Cogito, ergo sum(コギト・エルゴ・スム)〉
と訳したところ、デカルトが校閲して
Ego cogito, ergo sum, sive existo
となったということです。この名高い言葉はデカルトの他の著作にも見られますが、デカルト自身がラテン語で表記した場合にもいつも同じではなく、似通った言葉がいくつかあります。それらの中でも一番有名で人口に膾炙しているのは「コギト・エルゴ・スム」であろうと思います。
 序説に続く本論では三つの学問が取り上げられています。三つの学問というのは、まず屈折光学、次に気象学、それに幾何学です。どれにもラテン語訳が存在しますが、実は『幾何学』のみ、少々注意を要します。『幾何学』の訳者はエティエンヌ・ド・クルセルではなく、オランダの数学者フランス・ファン・スホーテン(Frans van Schooten1615-1660)がラテン語訳を作成しました。原亨吉先生による邦訳書があり、広く読まれています。

アーベルをめぐる人びと35 ヤコビの友情

 ヤコビはアーベルの数学研究に対する最大の理解者でした。1829年の春4月にアーベルが亡くなってから3年後の1832年に、ヤコビの論文「アーベルの超越関数の一般的考察」が「クレルレの数学誌」第9巻に掲載されました。論文の末尾に「1832年7月12日」という日付が記入されています。「アーベルの超越関数」というのはアーベルが「代数的微分式の積分」と呼んだものと同一で、アーベル積分のことですが、「諸注意」で取り上げられたのは超楕円積分という特別のアーベル積分です。ヤコビはそれに対してアーベルの名を冠する呼称を提案したのでした。アーベルの加法定理を「アーベルの定理」と呼んだのもヤコビですし、「アーベル関数」という言葉もヤコビの論文にすでに見られます。こんなところにアーベルに寄せるヤコビの心情が明瞭に現れています。アーベルを尊敬し、友情に似た感情さえ抱いていたのでしょう。
 ヤコビはアーベルが発見した加法定理によほど感銘を受けたようで、超楕円積分の逆関数の探索をめざしました。楕円積分の場合の類似をたどろうとしたのですが、超楕円積分に対して加法定理が成立する以上、何らかの意味合いにおいて超楕円積分にも逆関数が存在するであろうと確信してひとつの問題を提起しました。それが「ヤコビの逆問題」です。
 ヤコビが提起したヤコビの逆問題は超楕円積分を対象にして表明されましたが、次の世代のリーマンやヴァイエルシュトラスはこれを拡大し、完全に一般的なアーベル積分に対してヤコビの逆問題を提示して解決をめざしました。「ヤコビの逆問題」という呼称はリーマンの論文に見られます。
 1843年、ヤコビは糖尿病と診断されました。気候のよいイタリアに転地するようにと医師にすすめられましたが、裕福な銀行家だったヤコビ家はこのころ破綻していて、イタリアに向うゆとりがありませんでした。たいへんな苦境に直面してしまったのですが、これを見かねたディリクレがアレクサンダー・フォン・フンボルトに相談をもちかけました。この相談は効を奏し、プロイセン王フリードリッヒ・ヴィルヘルム4世の支援を受けられるようになりましたので、イタリアへの転地が可能になりました。同行者はディリクレとボルヒャルト。1843年11月16日、ローマに着きました。ヤコビは1829年にディリクレと知り合う機会があり、親しい友になりました。
 イタリア滞在は1844年6月まで続きました。それからベルリンにもどったのですが、ケーニヒスベルク大学は辞職を余儀なくされていましたので、仕事がありませんでした。パリ留学からもどった故国にもどったアーベルのような境遇に陥ってしまったのですが、プロイセン政府と交渉して、ベルリン大学で講義をすることができるようになりました。私講師でも員外教授でも正教授でもなく、ただ講義する許可が与えられただけですが、この時期の聴講生の中にリーマンがいたことは特筆に値します。
1851年1月、ヤコビはインフルエンザにかかりました。恢復にいたらないうちに天然痘に襲われるという不幸が重なり、2月18日にベルリンで亡くなりました。

アーベルをめぐる人びと34 青銅よりも長もちする記念碑

ヤコビは2月9日付のルジャンドルの手紙を受けて、3月14日付で返信しました。長文の手紙で、いろいろなことが書かれていますが、アーベルの論文「諸注意」に触れてよほど
感銘を受けたようで、

〈このオイラー積分の一般化はアーベル氏のなんという発見でしょう!このようなものはだれも見たことがありません!この発見は、おそらく私たちが生きているこの世紀の数学において為し遂げられたもっとも重大な発見です。〉

と書きました。これ以上は望みえないほどの最高の賛辞ですが、ヤコビは「ところで」と言葉をあらためて、

〈2年前にあなた方のアカデミーに報告されたとき、あなたやあなたの同僚の方々の注意を引かなかったということです。いったいどうしてそのようなことが起ったのでしょう。〉

と言い添えました。2年前というのは正確には1826年の後半期のことですが、アーベルがパリにいたことをヤコビがどうして知ったのかというと、アーベルが「諸注意」に脚註を添えて、

〈私は1826年の終わりころ、パリ王立科学アカデミーに、このような関数に関する論文を提出した。〉

と書いているのを見たからです。「このような関数」というのは「何かある代数的微分式の積分と見られる関数」(アーベルの言葉)のことで、アーベル積分にほかなりません。
 ヤコビはこの脚註を見て「パリの論文」の存在を知ったのですが、ルジャンドルも同じ脚註を見ていたはずなのにまったく言及していないのは不審です。このあたりの消息についてもう少し話を続けると、「クレルレの数学誌」(1832年)第8巻に「出版便り」という記事があり、5冊の本が紹介されていますが、最初に取り上げられているのはルジャンドルの著作『楕円関数とオイラー積分概論 第3の補足』で、紹介しているのはヤコビです。日付は1832年4月22日です。
 このルジャンドルの著作にはアーベルの「諸注意」が紹介されています。アーベルの研究を高く評価してそうしているのですが、どれほど高く評価しているのかを明らかにしたかったのか、ヤコビはルジャンドルがクレルレに宛てた手紙の一節を引きました。その手紙の日付は1828年3月24日です。ルジャンドルは「アーベルの美しい一定理」に言及し、monumentum aere perennius(青銅よりも長もちする記念碑)というラテン語の詩句を持ち出しました。典拠は古代ローマの詩人ホラティウスの詩集『カルミナ』第3巻、第30歌の冒頭の言葉

〈exegi monumentum aere perennius(エクセーギー・モヌメントゥム・アエレ・ペレッニウス)〉

で、「私は青銅より長もちする記念碑を築いた」という意味です。ヤコビの記事の趣旨はあくまでもルジャンドルの著作を紹介することだったのですが、実際にはアーベルを賞讃するような恰好になりました。

アーベルをめぐる人びと33 加法定理をめぐって

 ケーニヒスベルク大学の私講師になってからのヤコビの人生をもう少し観察すると、1827年の年末12月28日付で員外教授に昇進しています。懸案の変換理論の一般定理の証明に成功してルジャンドルの高い評価を得たことが、この昇進を支えていたと支えていたと見てさしつかえないと思われます。1829年の年初には『楕円関数論の新しい基礎』という著作を刊行しました。正教授に昇進したのもこの年です。
 ヤコビの著作『楕円関数論の新しい基礎』は、アーベルの論文「楕円関数研究」とともに今日の楕円関数論の根幹を形作っています。
 1828年の秋からアーベルとルジャンドルの間で手紙のやりとりがあったことは既述のとおりです。まずアーベルがルジャンドルに宛てて手紙を書いたのですが、その手紙の日付は1828年10月3日です。この一通は失われたようで、アーベルの全集や『生誕100年記念文集』にも収録されていません。ルジャンドルは10月25日付で返信し、そこに10月3日付の手紙を受け取ったことが記されています。これを受けてアーベルは11月25日付でまた手紙を書きました。数学研究のすべてを伝えようとするかのような気迫がこもり、手紙というよりもむしろ論文のような一通になりました、アーベル積分の加法定理が語られているところは特に注目に値します。まるで「パリの論文」のエッセンスのような記事ですが、パリで「パリの論文」を書いて科学アカデミーに提出したことには触れられていません。
 年が明けて1829年になり、ルジャンドルは1月16日付でアーベルに返信しました。アーベル積分の加法定理に深い感銘を受けたようで、

〈そこに遍在する分析の深さといい、諸結果の美しさと一般性といい、あなたがこれまでに公表したすべてのものを凌駕していると私には思われます。〉

と賞讃しています。この言葉こそ、アーベルがパリで待ち望んでいたものだったのですが、ルジャンドルの手紙には「パリの論文」への言及はなく、アーベル積分の加法定理もまるではじめて見たかのような印象があります。「パリの論文」は受け取っただけで、実際には一頁も読まなかったのではないかと思います。
 ヤコビはアーベルに会う機会はありませんでしたが、楕円関数論の研究を通じてアーベルの名前と学問を認識し、深い敬意を抱いた模様です。行方不明になったアーベルの「パリの論文」は後年再発見されて、1841年になってようやくフランスの学術誌に掲載されるという経緯をたどったため、アーベルが世を去った1829年の時点ではヤコビの目に触れることはありませんでした。ところがアーベルは「ある種の超越関数の二、三の一般的性質に関する諸注意」(1828年。以下、「諸注意」と略称します)という論文を書きました。テーマは「パリの論文」と同じアーベル積分の加法定理ですが、対象は超楕円積分に限定されていました。その代り議論の精密さは格段に増して、「アーベルの加法定理」の全容がすみずみまで明らかにされています。
 論文「諸注意」が掲載された「クレルレの数学誌」第3巻の第4分冊が刊行されたのは1828年12月3日。ルジャンドルは翌年の2月9日付でヤコビに宛てて書いた手紙でこの論文に言及しています。
 ルジャンドルはアーベルから非常に興味深い手紙を受け取ったことをヤコビに伝えました。アーベルは楕円関数論を研究していたのですが、「楕円関数よりもはるかに込み入った形に組み立てられる超越関数」に対しても、楕円関数と類似の諸性質があてはまることを示しました。諸性質という複数形で書かれていますが、根幹を作るのは加法定理で、それがさまざまな衣裳をまとって現れてくる様子を明らかにしたのがアーベルです。楕円関数よりも込み入った形の超越関数というのはアーベル積分のことで、アーベルはルジャンドルへの手紙では超楕円積分に限定することはせずに、完全に一般的なアーベル積分の加法定理を報告しました。ルジャンドルはヤコビに宛てて、「美しいオイラー積分の偉大な一般化」と書き送りました。
 ルジャンドルの見るところ、論文「諸注意」はこのようなアーベルの研究の「きわめて美しい抜粋」です。アーベルからの直接送付された手紙とも相俟って、ルジャンドルの感銘は一段と深まった模様です。

アーベルをめぐる人びと32 アーベルを語る

 7月に書いた手紙の返信をずいぶん遅くなって受け取ったヤコビは、年が明けて1828年1月12日付でルジャンドルに宛てて手紙を書きました。次に引くのは書き出しの言葉です。

〈11月30日付のあなたのお手紙とともに、科学アカデミーに私のエッセイを報告していただきましたときの記録が掲載されているグロブ誌を受け取りましたが、そのおりの私の心情を書こうとして果せませんでした。〉

 ヤコビの手紙はこのような言葉で始まっています。この上もなく高く評価され、しかも著作まで送ってもらうという行為を受けて、深く感激した様子が伝わってきます。
 ルジャンドルの好意に感謝するヤコビの言葉が続きます。

〈あなたが私にしてくれたこのようなあまりにも大きな御好意と、私にはこのような御好意を受ける値打ちはまったくないのにという思いに恐縮し、圧倒されました。いったいどのように感謝したらよいのでしょうか。かつて私が心から尊敬し、その著作をむさぼり読んだその人に、私の論文をこれほどまでに稀有の、そしてこれほどまでに貴重な親切なお気持ちをもって受け入れていただいたのですから、私にとって、これほど満足なことはありません。私の感情を適切に表す言葉が欠けているのですから、あなたの御好意に応じて私にできるここといえば、あなたが創始者であるあの美しい諸理論をさらに遠くまで押し進めるよう、ますます努力を重ねることのみです。〉

 こんなふうに感謝の気持ちを表明し、それからヤコビはアーベルを話題にして、アーベルの論文「楕円関数研究」の前半に言及しました。

〈私の最後の手紙からこのかた、きわめて重要な研究が、ある若い幾何学者により楕円関数に関して公表されました。その人物はたぶんあなたを個人的に知っているのではないかと思います。その研究というのは、クレルレ氏によりベルリンで刊行された「純粋応用数学誌」(註。「クレルレの数学誌」のこと)の第2巻の第2分冊に掲載されたクリスチャニアのアーベル氏の論文の前半のことなのですが、アーベル氏は2、3年前にパリにいたと、ある人が私に伝えてくれました。この論文の続きはつい最近、上記の雑誌の第3分冊に発表されたはずですが、まだ私のもとには届いていません。〉

 ヤコビはアーベルの論文に強い印象を受けたようで、「きわめて重要な研究」と呼んでいます。ひとまずこんなふうに訳出してみましたが、原語はdes recherches de la plus grande importanceというのですから、単に「きわめて重要な研究」とするのでは物足りない感じがあります。「最高の重要性をもつ研究」というほどの感じですから、まずは最大級の讃辞です。ヤコビはアーベルがパリにいたことを知っているような口ぶりですが、たぶんクレルレか、またはクレルレの近くにいてヤコビとも親しい人物、たとえば幾何学のシュタイナーあたりからアーベルのうわさを聞いたのでしょう。
 アーベルがヤコビの名を知ったのと相前後して、ヤコビのほうでもまたこうしてアーベルの名と楕円関数論に注目しました。

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