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アーベルをめぐる人びと27 ディリクレとアーベル

 ドイツの大学で教授になるには学位と教授資格を取得しなければなりませんが、パリで勉強したディリクレはどちらももっていませんでした。それでもベルリンとゲッチンゲンの大学の教授になれたのは、パリの数学者たちから高い評価を得たこと、ガウスにも評価されたこと、それにアルテンシュタインとフンボルトの強い推挙があったことという三つの要因が揃ったからでした。大学の通例を超越したのですが、大学側の抵抗にも根強いものがあり、ブレスラウでもベルリンでも長期にわたって差別に満ちた待遇に甘んじなければなりませんでした。
 ディリクレに比べると、アーベルにはパリの数学者たちによるお墨付きがなく、ガウスとの交流もありませんでした。ただひとつ、ディリクレにアルテンシュタインとフンボルトがいたように、アーベルにはクレルレがいました。年長のクレルレとの間に友情にも似た交友が生い立ったありさまは実にめざましく、クレルレはアーベルをベルリン大学に招聘しようとして、アーベルの研究に対するルジャンドルやガウスの好意的な所見を求めるなど、たいへんな努力を重ねたのでした。
クレルレはアーベルに宛てた1829年4月8日付の手紙において、「教育省はあなたをベルリンに招聘し、当地で雇用することを決定しました。たった今 、この件を担当している教育省の人物から聞いたばかりです」と報告しましたが、「この件を担当している教育省の人物」というのはあるいはアルテンシュタインその人だったのかもしれません。
 ディリクレの身に起ったことを振り返ると、招聘が決定したといってもいきなり正教授になるというのではなく、私講師に準じる形で雇用するということだったのであろうと思われますが、この決定が1829年の4月はじめというのはいくぶん気にかかります。というのはディリクレがベルリン大学の私講師になったのも同じ1829年だからです。ディリクレはアーベルの死を受けてアーベルの代りになったとも考えられますし、あるいはまたディリクレとアーベルが打ち揃って私講師になるという場面を想像することも許されるかもしれません。


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アーベルをめぐる人びと26 ベルリンからゲッチンゲンへ

 ブレスラウ大学の員外教授に昇進してから半年後の1828年10月、ディリクレはブレスラウを離れてベルリンに向いました。フンボルトの支援を背景にしてベルリン大学に移ろうとしたのですが、ディリクレ本人はもとよりフンボルトにしてももともとベルリン大学を望んでいたのですが、まったく無資格のままでは無理だろうというので、アルテンシュタインの推挙によりひとまずブレスラウ大学に職を得たのでした。
 ベルリンでは陸軍大学(Allgemeine Kriegsschule)の教官になりました。陸軍の幹部養成学校ですから、現在の日本なら防衛大学に相当します。本当はベルリン大学の教授になろうとしたのですが、またしても大学側の抵抗に遭遇しました。ブレスラウ大学で員外教授まで進んだ経歴はまったく無視されて、ディリクレの教授資格を認めようとしないため、振り出しにもどって再び私講師になり、教授資格の取得をめざすことになりました。私講師になったのは1829年です。教授資格取得のために大学側が出してきた課題は、「ラテン語で論文を書き、それを大講義室で講義すること」というのでした。
 ディリクレは乗り気になれなかったようで、この要請に応じませんでした。それでも1831年に員外教授、1839年には正教授とゆるゆると昇進することはしましたが、正教授は正教授でも「指名された教授(Professor designatus)」という不思議な呼び名の正教授で、他の正教授よりも格下の扱いでした。
 1851年になって重い腰を上げて「2元2次形式の合成について」というラテン語の短篇を書き、大学側の要請に応えた恰好になりましたので、やっと通常の正教授になりました。この時点でディリクレはすでに46歳です。差別待遇を受けて給与が低かったため、陸軍大学での教職も辞めることができず、1853年5月3日付でクロネッカーに宛てた手紙を見ると、毎週13個も講義があるという悩みが吐露されています。数学の研究に専念したかったのです。
 1855年2月23日にガウスが亡くなりました。これを受けてゲッチンゲン大学がガウスの後任として望んだのはディリクレでした。招聘を受けたディリクレは即答せず、ベルリン大学に待遇の改善を求めた模様です。この要求が聞き入れられたならベルリンに留まってもよいという考えだったのですが、大学側に拒絶されたためゲッチンゲンからの招聘を受諾することになりました。
 ゲッチンゲンでも講義を担当しましたが、ベルリン時代ほど多くはありませんし、ようやく研究に専念することのできる環境に恵まれました。残念なのは幸福なゲッチンゲン時代が長くなかったことで、ゲッチンゲンに移って4年後の1859年5月5日に心臓の病気のために亡くなりました。54歳でした。
 ゲッチンゲン大学でのディリクレの後任はリーマンです。ガウス、ディリクレ、リーマン、クライン、ヒルベルトと続くゲッチンゲン大学の数学の伝統がこうして形成されました。


アーベルをめぐる人びと25 三つの課題

 プロイセン政府の教育行政の中枢にいるアルテンシュタインの推薦を受けたといっても、学位がなく、教授資格ももっていないという根本的な問題が消えたわけではありませんので、これらを補填するためにさまざまな処置が施されました。まず学位のことですが、ボン大学の哲学部から名誉学位を授与されることが決まって解決しました。ボン大学は1818年に創立されたばかりの大学ですから、アルテンシュタインの意向が働く余地があったのかもしれません。
 ブレスラウの到着したディリクレは教授資格のないまま講義を始めましたが、これは便宜的な措置で、ひとまず私講師のような形をとったのではないかと思われます。アルテンシュタインの意向は政府の要請ですから大学側としても拒絶するのはむずかしく、受け入れるほかはなかったのであろうと思われますが、無条件で唯々諾々と受諾したわけではなく、教授資格試験を上回る過酷な課題を課してきました。課題は三つ。模擬講義を行い(第1の課題)、論文を提出し(第2の課題)、その論文を公開討論の場に持ち出す(第3の課題)ことです。通常の教授資格試験では論文を提出して審査を受けるという手順を踏みますので、それに準じる手順を踏むことを要求されたのでした。
 この三条件は一見すると何でもないことのように見えますが、よく見るとすべてに対処するのはとてもむずかしく、無理難題を課してあわよくばこの人事を葬り去ってしまおうとする強固な意志さえ感じられるほどです。第1の課題の模擬講義は教授資格試験としては異例ですが、ディリクレは「円周率πが非有理数であること」を示すランベルトの証明を取り上げて対処しました。
第2の課題については、パリで書いて高い評価を受け、学術誌に掲載された論文がありますので、それを提出すればよさそうに思われるところですが、ラテン語で書かれたものでなければならないという不思議な限定条件が附随していました。パリで書いた論文はフランス語で書かれていましたので、この条件は満たされません。そこでディリクレは急遽、「ある種の高次式の素因子を含む線型的形状について」という論文をラテン語で書きました。
 ともあれ論文が出来上がった以上、それを提示して第3の課題の公開討論に臨むのに格別の困難はなさそうですが、その公開討論はラテン語で行なうことと指定されました。ディリクレにとって、これが最大の障碍になりました。ディリクレはラテン語の読み書きはできましたが、話す力が不足していたのです。ディリクレも困惑したようで、アルテンシュタインに申し出て公開討論の免除を要請したところ、許可されました。大学側の意向を無視することになる特別の措置でした。
 こんなふうにして三つの壁を乗り越えて、1828年4月、ディリクレはようやく昇進してブレスラウ大学の員外教授になりました。員外教授というのはドイツ語の原語außerordentlicher Professorをそのまま訳出したのですが、正教授(Ordentlicher Professor)の手前の職階で、日本の大学にあてはめると助教授とか准教授という感じになりそうです。


アーベルをめぐる人びと24 ディリクレとアーベル

パリの数学者たちから高い評価を受け、ガウスの目にも留まって科学アカデミーに推挙され、そのうえアルテンシュタインとフンボルトの後押しもあるという有利な状況が構築されましたが、大学には大学の慣例がありますからディリクレを支援する人びとの思惑とおりにさらさらと事が運ぶわけにもいきませんでした。学内の教授たちが難色を示すのです。ディリクレはもとよりベルリン大学を望みましたが、アルテンシュタインはいきなりでは無理と判断したようで、当面の赴任先としてブレスラウ大学の名を挙げました。
ブレスラウは現在はポーランド領のヴロツワフ(ポーランド語)という都市ですが、ディリクレのころはプロイセン王国に所属していました。
 ディリクレはアルテンシュタインの提案を受け入れて、1827年の春、郷里を発ってブレスラウに向いました。途次、3月18日にゲッチンゲンに立ち寄ってガウスを訪問しています。ガウスもまたこの訪問を喜んでディリクレを厚遇しました。
2年前の1825年の秋、パリ留学の途次、ベルリンに到着したアーベルはクレルレと連れ立ってガウスを訪問することを考えていましたが、とうとう実現にいたりませんでした。ガウスはアーベルの「不可能の証明」の論文を見ても何も言いませんでしたし、それもまたアーベルにとって残念な出来事でした。ガウスはアーベルに対して、ディリクレに対するように親切ではなかったのですが、この差は何に起因しているのでしょうか。
 ディリクレがパリで書いた論文は当初から高い評価を受けましたが、アーベルの「パリの論文」はルジャンドルとコーシーの目に留まることもなく、行方不明になりました。ディリクレが取り上げた「フェルマの最後の定理」はルジャンドルもまた同時期に取り組んでいたテーマであり、成功すれば高い評価を受けやすいという事情は確かにありました。ディリクレにしても、当時のパリの数学の状況を踏まえて研究テーマを選んだのでした。
 これに対し、アーベルはあまりにも独自でありすぎました。アーベルが「パリの論文」で叙述した「アーベル積分の加法定理」は楕円積分に対するオイラーの加法定理を一挙に押し広げた偉大な命題ですが、楕円関数論がようやく黎明期にさしかかったころのことであり、完全に一般的なアーベル積分を考察するというのはいかにも異様です。ルジャンドルもコーシーも、「パリの論文」を見ても、何が書かれているのか、まったく理解できなかったのではないかと思います。
 留学を終えて帰国したアーベルは1827年になって楕円関数論を取り上げて、「楕円関数研究」という論文を書きました。主題は二つ。変換理論と等分理論ですが、ガウスに由来する等分理論はともかくとして、変換理論のほうはルジャンドルの苦心の研究の延長線上に開かれていく光景を描いているのですから、ルジャンドルはこれを理解したにちがいありません。現にルジャンドルはヤコビの変換理論の意味を即座に諒解し、高い評価を与えています。
 パリのアーベルは「パリの論文」ではなく、「楕円関数研究」のほうを先に書いて、科学アカデミーに提出するべきでした。手持ちの諸理論の中でも最高のものを出そうとして「パリの論文」の執筆に専念したのですが、その結果、理解する人のないみごとな果実を摘むことになってしまったのでした。アーベルの悲劇はそのような事情に根ざしています。


アーベルをめぐる人びと23 デューレンに帰る

 アレクサンダー・フォン・フンボルトは、プロイセンに新しい教育理念に基づいた大学を創ろうとしている兄に協力して、相応しい教授候補を探していたことと思われます。そのアレクサンダーのもとにディリクレが現れたのですが、故国にもどりたいというディリクレ自身の心情も相俟って、ディリクレの帰国の気運が急速に盛り上がりました。ディリクレの数学者としての力は、フェルマの最後の定理の特別の場合の解決により十分に示されていましたし、フーリエとポアソンというパリの有力な数学者の推薦も有効に働きました。アレクサンダー自身も直接ディリクレに会って高く評価したようで、ディリクレをドイツの大学に招聘する決意を固めました。
 以下しばらくアレクサンダー・フォン・フンボルトを単にフンボルトと呼ぶことにします。フンボルトの決意はディリクレをプロイセンの大学教授にするうえで具体的な力をもっていましたが、手続き上の障碍があり、即座に実現されるというわけにもいきませんでした。ドイツの大学で教授になるための第一歩はドイツの大学を卒業することで、まずはじめに学位論文を大学に提出して審査を受けて、学位を取得する必要があります。次いでハビリタツィオンと呼ばれる教授資格試験に合格しなければならず、合格すれば私講師に(Privat Dozent)なることができます。私講師というのはドイツ独自の職階で、大学で講義をすることを許された人のことをいうのですが、大学から給与が支給されるわけではなく、聴講者から直接授業料を徴収します。したがって聴講希望者が多ければ多いほど、収入も増えることになります。私講師を継続しながら機会をうかがって、助教授から教授へと進みます。
 ディリクレの次世代の人ですが、リーマンもデデキントもこの道をたどりました。ところがディリクレはギムナジウムこそボンでしたが、ドイツの大学を出ていませんでした。学位もなく、いわんや教授資格試験も受けていないのですから無資格というほかはありません。高い壁に行く手に立ちはだかっていたのですが、これを乗り越えるために、ディリクレはフンボルトの尽力を待つばかりではなく自分でもさまざまな手を打ちました。
 まずアルテンシュタインに手紙を書きました。日付は1826年5月14日。その手紙には「フェルマの最後の定理」をテーマにしてパリで書いた論文と、フンボルトの推薦状が添えられていました。アルテンシュタインはプロイセン政府の高官で、この時期には文部大臣のような地位にあって、教育行政の元締めのような人物でした。フンボルトとも旧知の仲でした。
 ディリクレはガウスにも手紙を書きました。日付は同じ年の5月28日で、パリで書いた論文も添えました。これも形式上の制度を乗り越えるための活動の一環です。この時期のガウスはすでに知らない者のない大数学者ですし、ガウスの目に留まれば何かと有利に作用するであろうという判断が働いたのでしょう。もっとも若いディリクレが自分ひとりの判断のみであれこれと手を打ったというのも考えにくいところです。高木貞治先生は「フンボルトの指示に従うたのであろう」(『近世数学史談』)と推定していますが、それはそのとおりだったろうと思われます。
 ガウスはディリクレの論文を高く評価したようで、エーンケに宛ててディリクレを推挙する手紙を書きました。日付は9月13日。エーンケは天文学者ですが、ベルリン科学文芸アカデミーの秘書でもあった人物です。
 1826年11月末といえばアーベルはまだパリに滞在中のことになりますが、ディリクレはパリを離れて故郷のデューレンにもどりました。アルテンシュタインとガウスに手紙を書いて心情を伝えましたので、あとはフンボルトからの連絡を待つという構えになったのでした。

アーベルをめぐる人びと22 故国に向う心

 ディリクレがパリに移ったのは1822年のことですが、この時期のパリにはフーリエのほかにもラクロア、ポアソン、ラプラス、ビオ、アシェット、ルジャンドル、フランクールなど、ヨーロッパを代表する数学者たちが打ち揃っていました。1822年といえば、おりしもフーリエ解析の誕生を告げるフーリエの長編「熱の解析的理論」が刊行された年でもありました。ディリクレにも大きな影響を及ぼして、初期のディリクレはフーリエ級数の収束性を論じた論文を書いています。
 ディリクレは数学のさまざまな領域に鮮明な足跡を印しましたが、本領は数論にありました。アーベルは1826年10月24日付のホルンボエ宛の書簡でディリクレの訪問を受けたことを報告しましたが、その手紙を見ると、ディリクレの力を高く評価するとともに、不定方程式x^5+y^5=z^5は自明な解を除いて整数解をもたないことの証明に成功したことを伝えています。「フェルマの最後の定理」の特別の場合です。ルジャンドルもまた同時期に同じ問題に取り組んでいて、この二人の取り組みにはいくぶん込み入った相互関連が認められますが、それぞれ独自に証明を構成したことになりました。
ディリクレはまず1825年7月11日に科学アカデミーで報告し、「ある種の5次不定方程式が解けないことについて」という論文を書きました。この論文は「外国の学者によりフランス学士院の科学アカデミーに提出された諸論文」に掲載されました。これだけではまだ少々不十分な論点が残されていたのですが、これに続いて同年11月14日に「前論文への補足」を科学アカデミーに提出し、これで完全な解決に到達しました。それから1年後にパリに到着したアーベルはこのような経緯を承知して、ホルンボエに伝えたのでした。当時のパリの数学界で話題になっていたであろう出来事ですし、ディリクレの訪問を受ける前に、ディリクレの名はすでにアーベルの耳に届いていたことと思われます。
 フェルマに由来する「フェルマの最後の定理」はガウスの数論とは別のもので、いわばフランスの数論に所属する命題です。フェルマは数論の領域で数々の現象を観察した人ですが、証明を書き残しませんでした。そこでオイラーやラグランジュが証明を試みたのですが、ルジャンドルはこの系譜に身を置いて「フェルマの最後の定理」の特別の場合を取り上げたのでした。ガウスの『アリトメチカ研究』を手にしてパリに向ったディリクレも、フェルマに由来する数論に影響を受けたのでしょう。
 特別の場合とはいいながら、「フェルマの最後の定理」の証明に成功したという事実は際立っています。1825年のディリクレはまだ20歳。パリに移って3年目のことで、この大きな成果をもって故国プロイセンにもどろうとする考えが芽生え始めました。おりしもプロイセンでは新しい学問の創造に向けて教育改革の動きが見られました。
 ヴィルヘルム・フォン・フンボルトの教育理念に基づいてベルリン大学が創設されたのが1810年。ベルリン大学というのは所在地の地名を冠した仮の呼称で、正式な校名は「フンボルト大学ベルリン」です。ヴィルヘルムはプロイセン政府の高官で、高名な言語学者でもあった人物ですが、そのヴィルヘルムにアレクサンダーという地理学者、博物学者、それに探検家でもある弟がいて、1807年からパリに滞在していました。ベルリン大学に招聘するのに相応しい数学者を探していたところ、フーリエとポアソンがディリクレを推薦しました。


アーベルをめぐる人びと21 『ディリクレの数論講義』

 パリのアーベルを自分と同じプロイセンの人と思って訪ねてきたディリクレは1805年2月13日にプロイセン王国のデューレンという町に生れました。数学に寄せる関心は早くから芽生えていましたので、両親もディリクレの心情を汲んで数学を学ぶための環境を整えようとしたのですが、当時のドイツには、ガウスという唯一の例外を除いて数学者がいませんでした。
 ガウスはヨーロッパで第一に数えられるべき偉大な数学者でしたし、ディリクレも本当はガウスに学ぶのが一番よかったのかもしれませんが、ガウスひとりを頼りにしてゲッチンゲン大学に入学するという道を選択するというのはどうもおぼつかない感じもあります。そこでディリクレの両親はディリクレをパリで勉強させようという考えに傾きました。パリはヨーロッパを代表する第一流の数学者たちが群がり集っていましたし、ディリクレの両親の目に華やかに映じたであろうことは想像に難くありません。それに、この時期のプロイセンがフランス第一帝政下にあったという政治状況も、ディリクレの両親の決断に影響を及ぼしたということも考えられるところです。
 ディリクレがボンのギムナジウムに入学したのは1817年。この時点で12歳です。16歳になって大学に入学可能な年齢になった年にパリ留学の方針が打ち出され、1822年、17歳のディリクレはいよいよ故国を離れたのですが、真に注目に値するのは、パリに向う若いディリクレの手にはガウスの著作『アリトメチカ研究』があったという一事です。高木貞治先生は著作『近世数学史談』の中でこの事実に触れて、『アリトメチカ研究』はディリクレの「終生の伴侶で、家にあっては絶えず机の上に、旅に出れば必ず行李の中にあった」と言い添えました。
後年のディリクレは偉大な数学者に成長し、ヤコビとともに19世紀のドイツの数学の土台を築くという重大な役割を担いました。1855年の年初2月にガウスが亡くなったとき、そのころディリクレはベルリン大学にいたのですが、ガウスの後任としてゲッチンゲン大学から招聘されました。ディリクレはこれを受けてゲッチンゲン大学に移り、講義を始めたのですが、1856年から1857年にかけての冬学期の講義のテーマは数論でした。10代の若い日から読み続けてきたガウスの数論を咀嚼して、報告したところにこの講義の値打ちがあります。
 ディリクレ自身の講義ノートは残されていませんが、聴講者の中にデデキントがいて、デデキントは自分が作成したメモをもとにして、講義の記憶やディリクレの諸論文なども参照しながらディリクレの講義を復元し、『ディリクレの数論講義』という書物を刊行しました。第1版の刊行は1863年で、すでにディリクレの没後の出来事でした。
 デデキントは単にディリクレの講義を再現したばかりではなく、巻末に独自の「補遺」を添えました。第1版の時点ですでに9篇。第2版(1871年)で第10番目の補遺が加えられ、1894年の第4版でもうひとつ、第11番目の補遺が出現したんですが、その補遺の表題は実に「代数的整数の理論」というのです。『アリトメチカ研究』に始まるガウスの数論が姿を変えて、今日に続く代数的整数論が形成されたのでした。

アーベルをめぐる人びと20 ベルリン大学招聘の知らせを受ける

1828年9月10日付でアーベルに宛てて書かれたクレルレの手紙のことは前に紹介しましたが、クレルレはそこでルジャンドルの言葉とともに、ヤコビの言葉もアーベルに伝えています。アーベルについてどう思うかと、ルジャンドルやガウスやヤコビに意見を求めたのでしょう。
 次に引くのはクレルレが伝えるヤコビの言葉です。

〈アーベル氏は新しい道を通って私の変換理論に到達しました。他の領域ではアーベル氏は私よりも先に進んでいたのですが、変換理論では私のほうがアーベル氏の先を行っていたのです〉
〈あなたの雑誌(註。「クレルレの数学誌」)に掲載されている一論文で、アーベル氏は、われわれの変換理論が完全に確立されたことを示しています。私は、この証明は解析学の最高にみごとな数々の傑作のひとつと思います。〉

 ここでヤコビが言及しているアーベルの論文は「楕円関数研究」の後半を指していますが、その論文の末尾に「附記」が附されていて、ヤコビとアーベルの手になる変換理論が完成の域に達した様子が明らかにされています。ヤコビはアーベルに会ったことはないのですが、論文を通じてアーベルの力量を認識し、深い敬意を抱くようになった模様です。しかもその敬意には友情に似た光さえ射しています。
 1828年の末、アーベルはフローラン・ヴェルクに向いました。クリスマスは無事に迎えることができましたが、この移動により健康を害した模様です。年が明けてすぐに病気が重くなり、恢復にいたらないまま4月6日に亡くなりました。
没後、クレルレの手紙が届きました。日付は1829年4月8日。クレルレはアーベルをベルリン大学に招聘しようとしていたのですが、ようやく見通しがついたことを一日も早く知らせようとする手紙でした。
 次に引くのはクレルレの手紙の文面です。

〈親愛なるかけがえのない友よ。ようやくよい知らせをお届けできます。教育省はあなたをベルリンに招聘し、当地で雇用することを決定しました 。 たった今 、この件を担当している教育省の人物から聞いたばかりです。ですから、疑う余地はありません。どのような資格で雇用するのか、どのくらいの給与が支払われるのか、まだ言うことはできません。というのは、私自身もまだ知らないからです。〉

〈私は大きな会議の席でその人物と話をしたのですけど、ほんの少しだけでしたので、そのときはこれ以上のことは何も聞かなかったのです。何かしらもっと詳しいことを聞きましたらすぐにお伝えします。私はただ、この重要なニュースを急いで真っ先にあなたにお知らせしたかったのです。それはともかく、あなたはよい状況にあることを確信してさしつかえません。あなたの将来について、もうまったく心配することはありません。あなたは私たちの仲間です。もう安全です。私が望んでいた通りのことが実現したように思われましたので、私はとてもうれしかったのです。少なからぬ努力を要しましたが、神様をたたえましょう。成功したのです。あなたが特に感謝しなければならない人のことは、当地でお会いしたときにお話しします。公式の要請を受け取ったらすぐに出発できるように、いつも旅行の準備をしておいてください。ですが、それまでは、切実なお願いを繰り返し申し上げておきたいのですが、実際に公式の要請が届く前にこのニュースのことをだれにも言わないようにしてください 。公式の通知はまもなく、2、3週間のうちに発送されるはずです。〉

〈何よりも健康を回復するよう、気をつけてください。この手紙が回復に向かっているあなたのもとに届きますように。最後にあなたに手紙を書いたのは先月の27日です。二、三の言葉だけでいいですから、すぐにこの手紙に返事をください。どうかお元気で。どうか安心してください。あなたはよい国に、もっとよい気候の中に、もっと学問に近いところに、あなたが尊敬し、あなたが愛する真の友人たちのもとに来るのです。〉

 西欧近代の数学史に永遠に記録され、いつまでも回想され続けるであろう美しい手紙です。中勘助先生の詩「アベル」では

   待ちあぐねて息絶えた人にベルリン大學招聘の知らせ

と、この間の消息が伝えられています。

アーベルをめぐる人びと19 ガウスの所見

 1827年に「楕円関数研究」の前半を書いたアーベルは、ほとんど同時期にヤコビという競争相手が出現したため、急遽対応を迫られました。変換理論におけるヤコビの発見はすでに手中にあることを明示しようと腐心したのでした。「楕円関数研究」の後半は1828年になって「クレルレの数学誌」第2巻に掲載されましたが、その末尾には「附記」が書き加えられて、ヤコビの発見がアーベル自身の方法で証明されています。「楕円関数研究」の後半の公表が遅れて翌年に持ち越されたのはこれを書くためでした。
ヤコビの発見が掲載されたのと同じ「天文報知」には、

  「楕円関数の変換に関するある一般的問題の解決」
  (「天文報知」第6巻、第138号、1828年6月刊行。末尾の日付は1828年5月27日)
  「前論文への附記」
  (「天文報知」第7巻、第147号 1828年11月刊行。末尾の日付は1828年9月25日)

というアーベルの2篇の論文が掲載されました。どちらも論文もテーマは変換理論で、ヤコビの出現に対応し、ヤコビをこえる地点に歩を進めようとするアーベルの姿勢がここに現れています。
 1827年の後半期から1828年の末にいたるまで、およそ1年半にわたってアーベルの数学研究は生き生きと継続し、アーベル以降の数学の姿に巨大な影響を及ぼし続ける大きな果実が実りました。アーベルの研究に着目する人びとも現れ始めました。次に挙げるのはアーベルに宛てたクレルレの手紙の一節です。ベルリンからクリスチャニアへ。日付は1828年5月18日です。

〈あなたのお仕事はますます高く評価されはじめています。フス氏はサンクトペテルブルクから、あなたのお仕事は大きな喜びをもたらしたと、私に書いてきています。ゲッチンゲンのガウス氏には、彼が30年以上も研究を重ねてきたという楕円関数について何らかの事柄を私のもとに送ってくれるようにと依頼したのですが、次のようなことを書いてきています。〉

 サンクトペテルブルクのフスというのはパウル・ハインリッヒ・フス(1797-1855年)という人で、父のニコラウス・フスはオイラーと同じスイスのバーゼル出身の数学者です。母はオイラーの娘ですから、ハインリッヒ・フスはオイラーを祖父にもつ人物で、1823年からサンクトペテルブルクの科学アカデミーの会員でした。アーベルの楕円関数論の淵源はオイラーですし、オイラーの泉が大きな流れになって生い立っていく様子を目の当りにしたこともハインリッヒ・フスを喜ばせたのでしょう。
 クレルレが楕円関数論に関する研究成果を送ってほしいとガウスに申し出たところ、ガウスはアーベルの「楕円関数研究」に言及し、次のような所見を伝えてきました。

〈ほかにいろいろな仕事がありますので、今のところ、それらの研究をまとめる余裕がありません。アーベル氏は、この仕事の少なくとも3分の1について、私の先を行きました。アーベル氏は私が1798年に到達した道にぴったりと沿って歩んできています。そのため、大部分について同じ諸結果に達したからといって、驚くほどのことはありませんでした。それに、アーベル氏の叙述は洞察力と美しさを兼ね備えていますので、もう同じ諸問題を叙述しなくてもすむという気がしています。〉

 クレルレはガウスの言葉をアーベルに伝え、それから「このガウス氏の判定は私を多いに喜ばせてくれました」と言い添えました。

アーベルをめぐる人びと18 ルジャンドルの言葉

 ヤコビの手紙と「天文報知」の双方を通じてヤコビの変換理論の進展を知ったルジャンドルですが、そのルジャンドルのもとにはアーベルの論文「楕円関数研究」が掲載された「クレルレの数学誌」も届いていました。クレルレがポアソンに送付し、ポアソンがそれをルジャンドルに見せたのです。この時期のルジャンドルは楕円関数論研究の第一人者でしたから、ルジャンドルのもとに情報が集まってくるのは自然な成り行きだったのでしょう。
 ちょうど1年後のことになりますが、クレルレが1828年9月10日付でアーベルに宛てて書いた手紙の抜粋が『生誕100年記念文集』に収録されています。ルジャンドルの言葉がそこに紹介されています。ルジャンドルはクレルレに宛てた手紙の中でアーベルに言及し、クレルレはそれをアーベルに伝えたのでした。次に引くのはアーベルを語るルジャンドルの言葉です。

〈あなたが若いアーベル氏について私に語っていることは、楕円関数に関するアーベル氏の魅力的な論説が掲載されているあなたの雑誌の分冊をひとわたり目を通して、彼の偉大な才能について私が心に抱いた考えと完全に一致します。ポアソン氏は昨年、ヤコビ氏の美しい発見の通知をシューマッハー氏の雑誌と著者の手紙により受け取ってまもないころ、あなたが彼のもとに送った分冊を私のもとに送り届けてくれました。〉
(註。「昨年」は1827年。アーベルの「楕円関数研究」の前半とヤコビの変換理論を知るまでの経緯が語られています。)

〈これまで面識のなかった二人の若い学者の手になるこれらの作品は、賛嘆と満足を私にもたらしてくれました。これによって、さまざまな点において、数年来、私がほとんど独占して研究を重ねてきたこの理論を、彼らがそれぞれの立場で完成させたことがわかります。ヤコビの発見の数々はことのほか私の注意を引きつけました。といいますのは、それらの発見は私自身の研究と非常に密接な関係があり、非常の満足のいく仕方で私の研究を仕上げているからです。〉

 ルジャンドルはアーベルとヤコビの変換理論を理解し、高く評価しました。アーベルとはパリで会ったことがあり、「パリの論文」を審査する役目も受け持っていたのですが、ルジャンドルの言葉を見るとアーベルのことはまったく忘れているような印象があります。

アーベルをめぐる人びと17 ヤコビの名を認識する

 「パリの論文」という最高の傑作を書き上げて提出したにもかかわらず、パリの科学アカデミーの評価を得るという望みはかなえられませんでした。徒手空拳のアーベルの手には、1825年9月はじめにクリスチャニアを発ち、1827年5月下旬に帰国するまで、21箇月にも及ぶ留学の果実は何もなく、クリスチャニア大学の教授になれなかったのはもとより定まった職業もありませんでした。
この時期のアーベルはすでに傑出した数学者であり、ガウスの豊饒で神秘的な数学思想を洞察し、継承するとともに、「パリの論文」などはガウスをさえもはるかにしのぐ地点に数学を押し広げました。それにもかかわらずアーベルは中勘助先生の詩に見られるように「見すごされた天才」であり続けました。
 岡潔先生は学位を取得して教授に昇進する道をみずから閉ざし、数年後には広島文理科大学を離れて郷里の和歌山県紀見村に返り、ただひとりで多変数関数論の開拓に打ち込む日々を送るようになりました。アーベルと岡先生の印象が重なり合うのはこのようなところです。
 定職のない状態でいったいどのように生計を立てていたのか、詳しい様子はよくわからないのですが、帰国後のアーベルはたいへんな勢いで論文を書き始めました。書き上がるとベルリンのクレルレのもとに送付し、クレルレはアーベルの論文を受け取ると次々に「クレルレの数学誌」に掲載しました。
 「クレルレの数学誌」の第2巻、第2分冊に、論文「楕円関数研究」の前半が掲載されました。今日の楕円関数論の基礎を構築する役割を担う傑作です。この分冊が発行されたのは帰国の年の1827年9月20日と記録されています。ところがちょうど同じ月に、ヤコビの論文がドイツの天文学者シューマッハーが主宰する「天文報知」という学術誌の第6巻、第127号に掲載されるという出来事がありました。アーベルの楕円関数論は等分理論と変換理論に大きく二分されますが、ヤコビの論文のテーマは変換理論であり、アーベルの「楕円関数研究」と重なっています。これがアーベルとヤコビの最初の接触の情景です。1804年12月10日にドイツのポツダムに生れたヤコビは、1827年9月の時点で満22歳。アーベルは満25歳でした。
 「天文報知」に掲載されたヤコビの論文は、実際にはシューマッハーに宛てた2通の書簡の抜粋でした。日付はそれぞれ1827年6月13日と8月2日。ヤコビは変換理論において新たな事実を発見し、それをシューマッハーに報告したのですが、シューマッハーはその値打ちを認めて「天文報知」に掲載したのですが、その掲載誌はパリのルジャンドルのもとにも送付されました。
変換理論というのはある特定の形の微分方程式論の一区域で、ルジャンドルの若干の創意が光っています。ヤコビはそれを承知したうえで、ルジャンドルの成果の延長線上に新たな発見を重ねたのですから、これをもっともよく評価するのはルジャンドルその人を措いてほかにありません。そこでヤコビはルジャンドルにも手紙を書いて、同じ発見を報告しました。その手紙の日付は1827年8月5日です。ヤコビのねらいは的中し、ルジャンドルは即座にヤコビの発見の値打ちを認めて賞讃の言葉を送りました。アーベルの「不可能の証明」を無視したガウスとはまったく違います。

アーベルをめぐる人びと16 アーベルの肖像画の行方

 アーベルの肖像というとあらゆる書物にいつも決まって同じポーズの絵が掲げられますが,それらのすべてにはただ一枚の下敷きが存在します。それはノルウェーの画家のヨルビッツという人がパリで描いたものですから1826年の作品です。ヨルビッツという人はどのような非となのか、詳しいことはよくわからないのですが、アーベルは異郷の地で故国の画家と出会い、親しくなったのでしょう。
 ストゥーブハウグの伝記『アーベルとその時代』によると、アーベルはこの絵とともに帰国の途につき、コペンハーゲンでハンステン夫人の兄弟(姉か妹)にあずけたということです。ハンステン家に伝わる逸話です。ところがいつのまにかまたアーベルの手にもどったようで、アーベルがフローラン・ヴェルクのスミス家で亡くなったとき、遺品の中にこの絵がありました。ただし遺品の所在地はフローラン・ヴェルクではありません。中勘助先生の詩「アベル」に

  愛人のもとで樂しいクリスマスを迎へようと
  アベルはフロランドへと長い旅路を急いだ

と歌われているように、フローラン・ヴェルクのスミス家は1828年のクリスマスの休暇をすごすための滞在先で、出発にあたって所持品はクリスチャニアに置いてきたのでした。トランクに詰め込んでどこかにあずけた模様ですが、その場所はどこなのか、ストゥーブハウグの本にも記されていません。
 スミスはフローラン・ヴェルクで鉄工所を経営していた人で、スミス家にはアーベルの婚約者のクリスティーネ・ケンプが住み込んでいて、家庭教師の仕事をしていました。アーベルの没後、1829年6月のことですが、ケンプがクリスチャニアに来てアーベルの所持品を引き取ったとき、肖像画も持っていきました。そののち、ケンプはアーベルの友人のケイルハウと結婚したのですが、ケンプの没後、肖像画の行方はだんだん不明瞭になり、ストゥーブハウグの記述にも推測が混じってきます。
ケンプが亡くなったのち、肖像画はアーベルの妹のエリーサベトの娘のテクラ・ランゲの手にわたり、それからテクラの娘のエリーサベト・ランゲの手に移りました。エリーサベト・ランゲはアメリカに移住し、1890年、ノルウェー人と結婚。その娘が1912年にノルウェーに移って結婚したのですが、そのおりにアーベルの肖像画を持っていきました。ここまでくるとすでに20世紀の出来事です。
 アーベルの肖像画をノルウェーに持ち帰ったエリーサベト・ランゲの娘は1966年、未亡人になりました。この時点でノーシュケ・リーブに売却。ノーシュケ・リーブというのは個人名ではなく、何かの組織のようですが、よくわかりません。そのノーシュケ・リーブの役員のフレデリック・ランゲ・ニルセンがオスロ大学に寄贈。1992年以降はオスロ大学のブリンネーン・キャンパスの数学図書館「アーベル館」に掲げられているということです。無名の画家が描き、失意のアーベルがかろうじて持ち帰った肖像画は、こうしてノルウェーの宝物になりました。
 一枚の絵の行方にも歴史の神秘の影が射しています。ここではこの肖像画がパリのアーベルの面影を伝える唯一の作品であることに、くれぐれも留意しておきたいと思います。

アーベルをめぐる人びと15 ディリクレの訪問を受ける

 パリのアーベルは「パリの論文」の執筆に心身を打ち込む日々を送りながら、ときおり外出することもありました。天文学のアレクシ・ブーヴァール、ルジャンドル、学術誌「化学・工業綜合報告」を出しているフェリュサック男爵などを訪ねることもあり、コーシーにも会い、街角でポアソンを見かけたこともありました。ルジャンドルもコーシーもまったく面識がないというわけではなかったのですが、ルジャンドルとコーシーの目にはノルウェーの一青年アーベルなどは何ほどのものでもなく、「パリの論文」の著者の名とたまたま会ったことあるアーベルの印象が結びつくこともなかったのでしょう。
 西欧近代の数学史を語るうえではるかに興味が深いのは、アーベルがディリクレの訪問を受けたという一事です。ディリクレはドイツのプロイセンに生れた人ですが、数学はドイツでは学べないという考えにより10代の若い日にフランスに向い、パリの数学者たちとの交友の輪に加わって数学の勉強を続けました。19世紀のはじめのドイツには数学者らしい数学者、言い換えると数学の創造に携わるような人物は確かにいませんでした。ただし、と急いで言い添えなければならないのですが、ただひとりだけ、ガウスという例外が存在しました。ディリクレもガウスという傑出した数学者のことははっきりと認識していて、パリに移るときも『アリトメチカ研究』を手にしていたほどでした。
 ディリクレはやがてドイツにもどり、ヤコビとともに19世紀のドイツの数学に礎石を据える役割を果すことになるのですが、そのディリクレがアーベルを訪ねてきたのでした。アーベルが1826年10月24日付で故国のホルンボエに宛てて書いた手紙に、ディリクレの訪問を受けたことが伝えられているのですが、アーベルによると、ディリクレはアーベルを自分と同じプロイセンの人と思っていたということです。
 ディリクレの生誕日は1805年2月13日ですから、1826年10月の時点で満21歳。アーベルは3歳の年長で満24歳。アーベルは無名ではありましたが、すでに当代一流の数学者でした。ディリクレはフェルマの大定理の特別の場合の証明のためによいアイデアを出して注目を集め、今しも頭角を現そうとしつつある時期にさしかかっていたころでした。
後年、ディリクレはベルリン大学の教授になりました。ディリクレの講義を聴講する学生の中にリーマンがいて、そのリーマンは「アーベル関数の理論」という偉大な論文を書きました。ディリクレに学んだ「ディリクレの原理」に基礎を置く論文で、表題にはアーベルの名が見られます。若い日にたまたま生起したただ一度の出会いでしたが、ディリクレはアーベルをめぐる人びとのなかでも重要な位置を占める人物です。

アーベルをめぐる人びと14 「パリの論文」の行方

パリのアーベルは科学アカデミーに提出するための論文の執筆に打ち込みました。「ある非常に広範な超越関数族のひとつの一般的性質について」という論文ですが、今では「パリの論文」という通称が広く行き渡っています。パリに到着したのが7月10日。「パリの論文」が完成して科学アカデミーに提出したのは10月30日のことですから、この間に4箇月になろうとする日々がすぎています。
 「パリの論文」の主題は完全に一般的なアーベル積分を対象とする加法定理で、今日では「アーベルの加法定理」と呼ばれています。淵源をたどると、前世紀、すなわち18世紀の半ばにオイラーが楕円積分の加法定理を見つけていて、アーベルの加法定理はその延長線上に正しく位置を占めるのですが、楕円積分からいきなり一般のアーベル積分へと向うのはあまりにも遠く、アーベルは実に大胆な巨大な一歩を踏み出したという感慨に襲われます。
 オイラーを始祖にもつ楕円関数論はラグランジュに継承され、ルジャンドルが集大成を試みて大きな著作を書きました。アーベルはルジャンドルの著作を通じてオイラーを知ったのですが、それだけを元手にしてどうしてアーベル積分へと飛躍することができたのでしょうか。
 論文執筆の順序ということを考えるなら、楕円関数論の論文を先に出すのが順当のようにも思いますが、アーベルはそうはしませんでした。また、科学アカデミーに提出して評価を得ることを望むなら、16世紀のカルダノの時代以来の難問に答えた「不可能の証明」の論文でも、十分にその役割を果したにちがいありません。実際、アーベルの心情を忖度すると、アーベル自身にもそのような考えがあって、この論文を手にパリに向ったのであろうと思われますが、ベルリンでクレルレに出会うという出来事があり、「不可能の証明」は「クレルレの数学誌」の創刊号に掲載されるという成り行きになりました。
 1826年秋のアーベルの手にはすでに「不可能の証明」があり、楕円関数論の方面でも新たな境地を開いていました。それでもなおアーベル積分の加法定理を選択したのはなぜかといえば、アーベルとしては自分のもっている最高のものを科学アカデミーに提出したいという、強固で、しかもけなげな気持ちがあったのであろうと思います。
「パリの論文」を審査員として予定されていたのはルジャンドルとコーシーで、コーシーが科学アカデミーで報告することになっていました。アーベルは結果を待ちながら一日また一日と日々をすごしていたのですが、何事も起りませんでした。ルジャンドルもコーシーも関心を寄せず、「パリの論文」はいつのまにか行方不明になってしまいました。中勘助先生の詩「アベル」に、

  見すごされた天才
  彼は自分の論文が科學院でしまひ忘れられたのを知らず

とあるのは、この間の消息を伝えています。
 この時期のルジャンドルはオイラーとラグランジュの楕円関数論を整備し、集大成するのに精一杯で、大部の著作を書き続けていましたが、楕円関数論をこえてアーベル積分の世界を遠望するなどというのは思いもよらない出来事でした。コーシーはコーシーで、微積分の基礎理論の再構築や複素変数関数論にこころを寄せていた時期ですし、アーベル積分の加法定理が眼前に現れても何の関心も寄せなかったろうと思います。オイラーの加法定理の延長線上にアーベル積分の加法定理を想定し、しかも実際に書き下すなどというのはアーベルならではの離れ業だったのであり、ルジャンドルやコーシーに理解を求めるのは無理なのでした。
 アーベルにしてみればだれも関心を寄せないなどとは思いもよらなかったでしょうし、反応がないのは評価がないのと同じことでした。それでも待ち続けているうちに滞在費用が底をついてきたようで、帰国を決意するほかはありませんでした。パリを離れたのは年末12月29日。翌1827年1月10日、ベルリン着。それから4月末までベルリンに逗留し、5月20日になってようやくクリスチャニアにもどりました。パリ滞在は半年足らずの短期間でした。手持ちの費用がとぼしくなったといいながらベルリン滞在が思いのほか長引きましたが、ベルリンには親切なクレルレもいることですし、失意のアーベルにとってパリよりもよほど居心地がよかったのでしょう。

アーベルをめぐる人びと13 パリ留学の目的とは

 故国を発って10か月に及ぶ大旅行の末にようやくパリに到着したアーベルは、後年「パリの論文」と呼ばれることになる論文の執筆に取り掛かりました。パリの科学アカデミーはこの時期のヨーロッパの学問の中心と見られていて、だからこそアーベルもパリをめざしたのですが、科学アカデミーに論文を提出してここに所属する数学者の目に留まって高く評価されるというふうに事が運んだなら、帰国後のアーベルの地位は安泰でした。友人のケイルハウがクリスチャニア大学の地質学の教授になったように、アーベルは同じクリスチャニア大学の数学の教授に就任することになるのはまちがいありませんでした。というよりも、むしろ当初からクリスチャニア大学の教授になるという前提のもとでパリ留学の途についたのでした。
 明治以降の日本でも同様の現象が見られました。明治維新ののち、明治10年(1977年)になって東京に東京大学が創設されました。日本にひとつしかない大学で、ノルウェーにはクリスチャニア大学しかなかったのとよく似ています。教員も学生も非常に少なく、数学の教授はただひとり、菊池大麓先生がいるばかりでした。しばらくして藤澤利喜太郎先生が二人目の数学教授になりました。藤澤先生は明治16年(1883年)に洋行してドイツに学び、4年後の明治20年(1887年)に帰国して東京大学の教授に就任しましたが、この人事は洋行の前から決まっていたことでした。
東京大学の創設は明治10年(1877年)。それから帝国大学、東京帝国大学と校名が移り変わりましたが、煩雑になりますので、以下、東京大学または東大と表記することにします。
 東京大学の数学の教授はまず菊池先生、次に藤澤先生、3番目は高木貞治先生です。高木先生もまた帰国後は東大の教授になることになっていて、それを前提にドイツに向いました。
高木先生のドイツ滞在は明治31年(1898年)から明治34年(1901年)まで、足掛け4年に及びました。留学中の明治33年(1900年)に東大の助教授に就任。帰国後、ドイツから持ち帰った研究を仕上げて明治36年(1903年)に東大から学位を得て、明治37年(1904年)に教授になりました。高木先生の洋行には、明治から大正を経て昭和初期にかけての洋行ということのひとつの範例を示されています。
 もっとも洋行の実態はさまざまで、予期されたとおりに事が運ばない場合もあります。高木先生の洋行よりだいぶあとのことになりますが、岡潔先生は文部省在外研究員として昭和4年(1929年)から昭和7年(1932年)まで、足掛け4年にわたってフランスに滞在しました。広島の高等師範学校の一部分が大学に昇格して広島文理科大学が創設されることになり、教官候補者が決定されたのですが、岡先生は理科の教官要員に選ばれて、就任に先立って留学することになりました。このあたりは高木先生の場合と同じです。
 フランスに向った岡先生はパリでガストン・ジュリア先生に師事して多変数関数論に関心を深めるようになり、研究テーマを定めてフランス語で論文を書き始め、150頁ほど書き進めたところで帰国しました。高木先生の場合と同様、日本にもどる前にすでに広島文理科大学助教授の辞令が出されています。
 帰国した岡先生は広島文理科大学に赴任して講義を担当しながら、フランスから持ち帰った論文の完成をめざしました。書き上げて出身大学の京都帝国大学に提出し、学位を授与されるのを俟って教授に昇進するという段取りだったのですが、岡先生が論文を完成させる意欲を失ったため、これは実現されませんでした。前もって敷かれた路線からはずれると、それからの人生は道なき道をひとりで歩いていくような感じになってしまいますが、岡先生はもっと深い研究に取り組もうという心情に襲われて、みずから困難な道に分け入っていったのでした。

新刊案内

     『古典的名著に学ぶ微積分の基礎』
     刊行予定日:平成29年(2017年)8月10日ころ
     共立出版
     定価(税込み):2700円


           古典的名著に学ぶ微積分


アーベルをめぐる人びと12 10か月の大旅行

 『純粋数学と応用数学のためのジャーナル』はクレルレの名にちなんで「クレルレの数学誌」と呼ばれるようになりました。21世紀の今も発行が続く名高い数学誌ですが、1826年の創刊第1号から1827年の第2号、1828年の第3号、1829年の第4号と続く初期の「クレルレの数学誌」には何篇ものアーベルの論文が掲載されています。クレルレは無名のアーベルの数学の力を信頼し、数学研究に寄せるアーベルの思索の成果の場を惜しみなく提供したのですが、アーベルの没後、数学者としてのアーベルの名が高まっていくのにつれて、「クレルレの数学誌」の値打ちもまた高まっていきました。
 アーベルのベルリン滞在はいつまでも続き、ようやくベルリンを発ったのは1826年2月末のことでした。前年10月11日に到着してから5か月にもなろうとする長逗留になりました。この間にはクレルレと二人でゲッチンゲンに行き、ガウスを訪問する考えもあったのですが、この計画はとうとう実現にいたりませんでした。「不可能の証明」の最良の理解者はガウスであることをアーベルはよく知っていましたし、代数方程式論ばかりではなく、楕円関数論の方程式無念についてもガウスと語り合いたいと強く念願していたことと思われますが、論文を送っても無視されたような出来事もありましたし、どうも気が進まなかったのでしょう。その代りクレルレとの交友は深まっていき、すっかり親しくなりました。
ベルリンを発ったアーベルはライプチヒ、フライベルク、ドレスデン、ウィーン、グラーツを経てイタリアに入り、トリエステ、ベネチア、フシーナ、バドヴァ、ヴィチェンツァ、ヴェローナ、チロル、ボルツァーノと遍歴を重ね、ウィーン、チューリッヒを経て、7月10日になってようやくパリに到着しました。前年9月7日にクリスチャニアを発って以来、10か月という大旅行でした。パリ到着の日時が7月10日と特定できるのはなぜかというと、パリのアーベルが8月12日付でハンステンに宛てて書いた手紙があるからで、そこに「ぼくはもう7月10日からここにいます」という消息が伝えられています。
 ところが困ったことがひとつあります。アーベルの手紙はアーベルの生誕100年を記念して刊行された『生誕100年記念文集』(1902年)という本に集められているのですが、ここに1826年7月15日付のアーベルの手紙が収録されています。ケイルハウという友人に宛てた手紙で、アーベルはこれをチューリッヒで書きました。ところが、これは「7月10日からパリにいる」という先ほどの文言に反します。このためアーベルのパリ到着の日がわかりにくくなってしまうのですが、ひとまずアーベル自身のいう「7月10日」を採用しておくことにしたいと思います。
 ケイルハウはアーベルとともに留学の旅に出た人で、地質学者です。後年、クリスチャニア大学の教授になりました。

アーベルをめぐる人びと11 クレルレと出会う

 アーベルの数学研究の中味を観察すると、代数方程式論といい、楕円関数論といい、ガウスの影響が色濃く射していることがわかります。アーベルをめぐる人びとの中でもガウスは特別に重い位置を占めているのですが、代数方程式論に関するアーベルの最初の論文がガウスに無視されたような恰好になったのはいかにも残念なことで、アーベルにとって不幸なことでもありました。それでもアーベルはこの論文を放棄するようなことはせず、ゆったりとした形にあらためて、新たに
「4次を越える一般方程式の代数的解法は不可能であることの証明」
という表題の論文を書きました。おりしもノルウェー政府の国費留学生としてパリに向うことになった時期でもありました。「不可能の証明」は西欧近代数学史の時代を画する成果であり、カルダノの時代からこのかた300年に近い歳月を経て明るみに出された真に偉大な発見でした。
 アーベルの心に数学の灯(ひ)を灯したホルンボエも、クリスチャニア大学のハンステンも、コペンハーゲン大学のデーエンも、だれもアーベルの「不可能の証明」の成否を判定することができませんでした。ただひとり確信をもって発言することができるであろうと思われたガウスに託してみたものの、ガウスの声が聞こえてくることはありませんでした。それでもアーベルには自信があったようで、書き直した論文を手にパリに向いました。パリの数学者たちの目に触れることに期待する心情に傾いたのでしょう。
 留学の目的地は実はパリだけではなく、ゲッチンゲンを訪ねることもまた当初から企画されていました。もとよりガウスがいるからのことで、アーベルはガウスに会いたかったのですが、このゲッチンゲン行がとうとう日の目を見ませんでした。
 いよいよクリスチャニアを発ったのは9月7日。デンマークのコペンハーゲンを経てドイツに入り、リューベック、ハンブルクとたどって10月11日にプロイセン王国の首都ベルリンに着きました。
 ベルリンではアウグスト・レオポルト・クレルレを訪ねました。クレルレはプロイセン王国の政府高官で、鉄道技師としてドイツ初の鉄道のひとつであるベルリン=ポツダム間の鉄道を建設っしたことで知られています。数学者というわけではなかったのですが、数学という学問に大きな情熱を抱いていた人で、アーベルの訪問を受けたのはおりしも数学専門の学術誌『純粋数学と応用数学のためのジャーナル』の創刊の準備を進めていた時期でもありました。生地はプロイセンのアイヒヴェーダーという町。生誕日は1780年3月11日ですから、1802年8月5日に生れたアーベルよりも22歳も年上ですが、アーベルの人柄に好感を抱いたようでたちまち親しくなりました。
 『純粋数学と応用数学のためのジャーナル』は翌1826年の年初から刊行が始まりました。創刊第1号、第1分冊は1826年2月発行。アーベルが持参した「不可能の証明」の論文も掲載されましたが、その際、もともとフランス語で書かれていた論文をクレルレがドイツ語に翻訳するという出来事もありました。


アーベルをめぐる人びと10 ガウスと「不可能の証明」

 アーベルの「不可能の証明」の証明法はきわめて構成的で、アーベルに独自の創意がくっきりと現れているのはまさしくそこのところです。アーベルに少し遅れてガロアもまた「不可能の証明」に成功しましたが、ガロアは「方程式のガロア群」というものに着目し、可解性の判定をガロア群の構造に帰着させるのですから、根の形に寄せる関心は見られません。アーベルの考え方とはまったく異なっています。
 アーベルは観念的に可解性を判定するのではなく、代数的に解ける場合には根の代数的表示式を具体的に提示することをめざし、「不可能の証明」の際には、ひとまず一般5次方程式が代数的に解けると仮定して、その場合に考えられる根の代数的表示式を明示して観察し、根の置換の考察などを通じて矛盾を取り出すというふうに論証を進めました。証明の最後の段階に根の置換に着目するという場面が現れますが、それはあくまでも補的な手段なのであり、アーベルの創意の核心は、根の代数的表示式を書き下すところに宿っています。
 1824年7月の末、アーベルの論文はハンステンの手でドイツの天文学者シューマッハーのもとに送付されました。シューマッハーはガウスの友人で、ハンステンはシューマッハーを経てガウスの手もとに届くことを期待したのでした。この当時の数学の状況を回想すると、アーベルが試みた「不可能の証明」の成否を判断することができるのはガウスを措いてほかにありませんし、ガウスの批評に期待するというのは正しい選択でした。ところが、ガウスはアーベルの論文にまったく関心を示さなかった模様です。
 その理由として、アーベルの論文の表題に見られる「5次の一般方程式の解法は不可能である」という文言において、「解法」の一語に「代数的」という形容句が欠如していたことがしばしば指摘されます。解法を発見するための大前提として「根の存在」を確認することが要請されますが、それならほかならぬガウス自身が学位論文において証明しています。今日の数学で「代数学の基本定理」と呼ばれている命題ですが、これを前提として解の表示を考えようとするとき、アーベルがめざしたのは「代数的な表示」は存在しえないということの証明でした。解き方を限定して代数的という条件を課すことをしないのであれば、解けるか否かということ、それ自体が意味を失ってしまいますし、ガウスは瞬時に諸事情を察知して、アーベルの論文の表題を一瞥しただけでたちまち興味を失ったということはありうるかもしれません。
 あるいはまた、ガウスは「不可能の証明」ということにそもそも関心をもっていなかったとも考えられそうです。『アリトメチカ研究』の第7章には円周等分方程式の代数的可解性が記されていますが、ガウスの眼目は円周等分方程式の解法をひと続きの低次方程式の系列に帰着させて、段階を追って解くことにありました。代数的可解性を重大な問題と見ている様子は感じられず、事のついでに書いておいたかのような軽い調子さえ漂っています。
ガウスは『アリトメチカ研究』の第7章において円周等分方程式を離れて一般の代数方程式にも言及しているのですが、あたかも  「不可能の証明」などはあたりまえのことであるかのような口振りです。アーベルの「不可能の証明」に関心を寄せなかった真の理由はそのあたりにあったのかもしれません。

近刊書刊行日変更のお知らせ

・近刊予告
・刊行延期のお知らせ

  書名 『古典的名著に学ぶ微積分の基礎』
  予定刊行時期 平成29年8月
  (7月→8月に変更)


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